蛸薬師通の空也堂を拝し、次の油小路を右に曲がると、京都市立本能小学校のあった所である。

もっと古くは、織田信長が明智光秀の謀反により、49才を一期に自刃をした「本能寺の変」の舞台となった場所でもある。



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現在の本能寺は、京都市中京区下本能寺前町の寺町御池下ルにあり、この地はその旧址である。

本能寺跡記によれば、
『応永22年(1415)御開山日隆聖人は本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、

後に破却されたので、永享元年(1429)袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。

その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失、天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって、旧地より四条西洞院の比の地に移転、壮大なる堂宇の再興を見た。

然るに、天正10年(1582)6月2日彼の「本能寺の変」によって、織田信長とともに炎上、天正17年(1589)この地に再建せんとするも、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙す。』

とある。

                            出展:【石碑にある本能寺跡記】より


現在の本能寺は寺町御池にある。(下記URLを参照ください)
敵は本能寺にあり



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本能寺は、織田信長が家臣である明智光秀の謀反により、信長の自刃とともに火が放たれ堂塔伽藍総て灰燼にきしてしまう。

時に天正10年(1582)6月2日、後に「本能寺の変」と呼ばれ日本人なら知らないものはないという程、有名な出来事である。

今回、本能寺の変で取り上げてみたいのは、よく知られている言葉である。

まずは・・・・・

『時は今 天が下知る 五月哉』

の発句を光秀があげた、丹波の愛宕権現に参詣した折に催した連歌の句会で詠んだ歌である。

「時は今」とは、時は土岐氏をいい、光秀もその土岐氏につながり、
「天が下知る」とは、天下を狙える時が来た「五月」であるとの意で、謀反の決意をしたと解釈されている。


そして丹波亀山を出陣し、京と丹波の境である老の坂を越え、桂川に来たときに、光秀が全軍にかけた

『敵は本能寺にあり』

と、それにより明智軍は京の本能寺へと真直ぐに向かうのである。


6月2日の早朝に本能寺を明智軍が包囲しこれに気付いた信長が光秀の謀反と知ると

『是非に及ばず』

と、その最期を悟ったという。

本能寺の変の後の光秀は三日天下といわれるように、その思いとは随分違ってしまったようである。

そしてその本能寺の跡は、明治2年(1869)に京都市立本能小学校として開校するのだが、その本能小も平成4年(1992)に少子化のために廃校となり、こんな石碑が残るのみとなる。



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そして月日は流れ、その昔ここに本能寺という大寺院も、子供たちが楽しげに遊んだ校舎も在ったことが想像すら出来ない跡になってしまった。

今は、「京都市立堀川高等学校」「本能自治会館」「京都特別養護老人ホーム」などがあり、かろうじてその町名に本能の名を残すのみとなり、信長の無念も小学生の笑い声も全く感じられない場所となっている。