岩上通から堀川通に出て、四条堀川の交差点を東北に渡り、一筋目の錦小路通を超えた辺りに「藤堂藩々邸跡」がある。 |
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大和大納言豊臣秀長の忠誠な家臣であった藤堂高虎。その藤堂家の京都藩邸があったのがこの辺りである。 |
大和郡山のプチ旅を終えて、郡山と縁がある藤堂高虎が起こした藤堂藩の藩邸がここに在ったのは、どこか因縁を感じるのである。 |
藤堂高虎は戦国時代から徳川初期を生きた武将で、何人も主君を変え幕末まで生き残り、鳥羽伏見の戦では、彦根藩とともに幕軍でありながら、幕府軍が劣勢とみると官軍側につき幕軍を裏切っている。 |
その為に、幕軍からは「さすが藩祖の薫陶いちじるしい」と藩祖高虎を例にだして皮肉られたという。 |
しかし、そんな高虎も羽柴秀長に仕えたころは、秀長を生涯の主と仰ぎ、秀長の子秀保が没するまで、大和豊臣家のために忠節をつくし、秀保没後は高野山に上り秀長、秀保の菩提をとむらった。 |
その後、秀吉によって還俗させられ、世の荒波を渡っていくのであるが、秀吉の死去と共に家康に近づき、関ヶ原の後、伊賀一国と伊勢八郡を加増され伊勢津藩の藩主となり、藤堂家は明治維新まで続くことになる。 |
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藤堂藩々邸の跡は現在、京都市立堀川高等学校となっている。 |
明治41年(1908)女学校として設立され、戦後に男女共学となり、京都大学への合格者を毎年30~40名出している。 |
平成20年(2008)に創立100周年を迎えている。 |
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