今回は、京の新町通に点在する、古くて新しい京町家……
紅殻格子に虫籠窓、駒寄せ柵に犬矢来等々、京町家の景観を訪ねてみようと思う。



クリックで大きくなります クリックで大きくなります

今回は四条大宮から歩き始めるのだが、四条大宮には二つの電車の駅がある。

一つは、嵐山・太秦方面に行く京福電鉄の嵐電・四条大宮駅がある。この電車の沿線にも見るべき処が多いのだが、また何時か乗ってみることにする。

それともう一つ、阪急京都線の大宮駅がある。阪急電車には中々乗る機会がなく、阪急沿線のことが書けないでいるが、又機会を設けてみたいと思う。



クリックで大きくなります クリックで大きくなります

四条大宮から四条通を東に歩き、堀川通の一筋手前の岩上通を下ルと、すぐの右側に「フランシスコの家」の看板が掛った軒先に、キリシタン灯籠が置かれた建物がある。

慶長2年(1597)2月に豊臣秀吉の命により、長崎にて処刑された26人のカトリック信徒(後に、日本二十六聖人と称される)の内24人が、前年7月にこの地で捕えられた。

当時はここにフランシスコ会が運営する教会や病院があったのである。


この建物の軒先に灯籠があるが、「キリシタン灯籠」と呼ばれ、千利休、七哲の一人古田織部(1543~1615)が考案したともいわれ、

この灯籠がキリシタン信仰の対象ではないかと云われているが、確証はないという。



クリックで大きくなります 通りを挟んだ向かいには「妙満寺址」の石碑が建っている。現在は、京都市の北、岩倉にある妙満寺の旧跡である。顕本法華宗 総本山妙満寺といい、日蓮上人の教えを受け継ぐ。寺社は、応仁の乱や天文の変にて焼失するも再興されるが、天正11年(1583)の秀吉の京都改造で、寺町二条に移ったが、400年の時を経た、昭和43年(1968)に現在の岩倉の地に移っている。

妙満寺の境内には「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の安珍・清姫伝説ゆかりの梵鐘がある。

道成寺は安珍と共に鐘を焼かれ永く鐘を失っていたが、四百年ほど経った正平14年(1359)の春、鐘を再興することになり、鐘が完成し鐘供養をしたところ、一人の白拍子が現れて舞を舞い始めた。

舞いが終わると鐘は落下し、白拍子は蛇身に変わり日高川へと姿を消した。その後に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れた道成寺は鐘を竹林に埋めた。

さらに二百年ほど後の天正年間。豊臣秀吉による根来攻めが行われた際、秀吉の家臣・仙石権兵衛が山中でこの鐘を見つけ、京都に持ち帰ろうとしたが、鐘が重かったために途中で破却し近くの住民の手によって妙満寺に奉納されたものだと伝えられ、道成寺を演じる芸能人はこの鐘に芸道精進を祈っている。