上賀茂神社は下鴨神社からさらに賀茂川を西北に約3Kmさかのぼった御園橋から、約100mで上賀茂神社の一の鳥居が見えてくる。 |

一の鳥居、二の鳥居とくぐり、本殿の庭に入る前に、上賀茂神社といえば、よくこの景色で代表される、玉橋と楼門がある。 |
上賀茂神社は、正式名称を「賀茂別雷神社」といい「賀茂御祖神社(下鴨神社)」とともに、賀茂氏の氏神を祀る神社であった。 |
その創建は古く、神武天皇の御代に、 |
(神武天皇とは、日本初代の天皇で、この天皇が即位したときが日本の元年であると定めた皇紀という紀年法がある。西暦とは660年のずれがあり、ちなみに、昭和15年、西暦1940年は、紀元(皇紀)2600年となり、戦時下でもあり日本各地で盛大な祝い事が行なわれた。 |
話は変るが、戦前の兵器には正式採用になった紀元(皇紀)の末尾をとって「九七式艦上攻撃機」「九九式艦上爆撃機」「一式戦闘機(隼)」などと名付けられていた。 |
かの有名な零戦も、紀元2600年に正式採用されたことから「零式艦上戦闘機」と名付けられている。少し余談が長くなったので、話を元に戻すことにする。) |
本殿北2Kmの神山に「賀茂別雷神」が降臨したことに始まるとも、また下鴨神社のご祭神「玉依日売」が瀬見の小川の上流から流れてきた丹塗りの矢によって、処女解任をし「賀茂別雷神」を生んだのが始まりともいわれ、いずれも古い古い昔からこの神社がこの地にあったということである。 |

時代は下り、794年に平安遷都が行なわれると、上賀茂、下鴨神社は王城鎮護の神社として崇敬を受けることになる。斎王として皇室の皇女が代々務めるような大社となっていくのである。 |
ここから本殿を拝するのだが、本殿と権殿はともに三間社、流造で、文久3年(1863)造替になる国宝である。その姿はここからは写真に収めることは出来ない。 |

5月15日に行なわれる上賀茂、下鴨両神社の祭礼である葵祭は、6世紀欽明天皇の頃に、度々起こる風水害が賀茂神の祟りだとされ、馬に鈴をつけ走らせたところ、嵐が収まり五穀豊穣となったことに由来すると云う。 |
爾来、賀茂氏により「賀茂祭」として伝えられる。以降、現代まで都の怨霊を鎮めるための祭として、後の「祇園祭」「時代祭」とともに、京都の怨霊鎮めの祭と云われるようになったのである。 |

上賀茂神社の祭神「賀茂別雷神」に手を合わせ、楼門を出て、写真を撮ろうとしたがシャッターが下りない。よくみると電池のマークが全くなく、電池切れの警告が出ていた。 |
まったく写真が撮れなくなってしまった。今までいくら写真を撮ってもメモリー一杯まで撮ることはなく、電池も切れるまで撮ったことはなかった。 |
今回もそのつもりでいたのだが、実はその前に100枚ほど写真を撮っていて、充電するのを忘れていたのである。 |
そのために今日始めて途中で電池切れという事態を引き起こしてしまい、ここで上賀茂歩きも於わらざるを得なくなってしまったのである。 |
もう少し歩きたいと思ったが、上賀茂神社前からバスに乗り帰路に着くことにする。 |
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