『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。』 |
に始まる「方丈記」 |
【これが書かれたのが、鎌倉時代の「建暦のふたとせ、やおのつもごり頃(建暦2年(1212)】 |
を書いた鴨長明は、下鴨神社の禰宜の家系であったという。 |

鴨長明は平安末期の久寿2年(1155)に、下鴨神社、禰宜の家系に生まれ、幼少のころより学問に秀で歌道にも優れた才を発揮した。 |
安元元年(1175)21才のときに、高松女院歌合せに和歌を献じ注目を集める。 |
治承4年(1180)の6月に、平清盛が都を福原に移したおりには、長明も同行するが、平家が滅ぶと再び京に戻る。 |
正治2年(1200)46才のとき、後鳥羽上皇に取り立てられ、院の歌会などで活躍をする。 |
後鳥羽上皇により河合神社の神官に推挙されるが、鴨祐兼などの反対により禰宜につくことが出来ず、失意のうちに世を見限り出家をしてしまう。元久元年(1204)50才のときである。 |
その後、建暦2年(1212)に日本三大随筆の一つ「方丈記」を書き上げるのである。 |
【日本三大随筆は、「方丈記」に加え |
「枕草子」【清少納言:平安中期(996年頃) |
「徒然草」【吉田兼好:鎌倉時代(1330年頃)】 |
また古今和歌集にも10首の和歌が採用され、代表的なものとして。河合神社の東を流れる小川を詠んだ |
「石川や」瀬見の小川の清ければ 月も流れを たずねてぞすむ」 |
がある。 |

河合神社の境内には、長明の方丈なるものがある。 |
『鴨長明は50才のときに出家をし、大原に隠遁した。その後、大原からほうぼうを転々とし、承元2年(1208)58才のころ(現在、伏見区日野町)に落ち着いた。 |
各地を移動している間に「栖」として仕上げたのが、この「方丈」である。移動に便利なように、すべて組立式となっている。 |
広さは一丈(約3メートル)四方で、2.73坪、畳5帖半程度の広さである。間口、奥行とも一丈四方というところから「方丈」の名がある。 |
さらにもう一つの特徴は、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた土居桁の構造である。この構造は、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。 |
下鴨神社は、式年遷宮により21年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものと云われている。 |
出展:【長明の方丈 解説の駒札】より |
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