出町柳から河合橋を渡り、糺の森の入口にあるのが、葵公園である。この一角に、尾上松之助の胸像が建っている。


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尾上松之助といっても、その人誰という感じだろうが、尾上松之助は明治から大正にかけて、日本映画最初のスターである。

明治42年(1909)に、日本映画の父といわれる牧野省三監督の時代劇で映画界に入り、目を見開き見得を切ることから「目玉の松ちゃん」と呼ばれた。

日本映画の草分けである横田商会が製作した時代劇の殆んどに出演し、日本映画創生期の大スターである。


胸像の碑文には、

『尾上松之助(本名:中村鶴三)氏は、目玉の松ちゃんの愛称で親はれた時代劇俳優の先覚者であった。

この像は氏が社会の福祉につくされた数々の功績をたたえるとともに、その精神である平和な社会を念願して建造したものである。

昭和41年2月  京都府知事  蜷川虎三』

とある。


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目玉の松ちゃんの所属した横田商会は、二条城のすぐ近くに撮影所を開設した。その跡地に二条城撮影所跡の碑が建っている。

碑文によると、

『歴史と文化の都・京都は日本映画発祥の地であり、映画の都である。

世界文化遺産「二条城」の膝元であるこの地に、明治43年(1910)に横田永之助の横田商会により、京都初の撮影所である「二条城撮影所」が開設された。

この撮影所の規模は、およそ300坪の土地に2間×4間の低い板敷の舞台をしつらえ、それを開閉自由の天幕で覆うという簡素なもので、

背景はすべて書き割りであったと言うが、大正から昭和初期の日本映画隆盛の一時代を築いた京都の映画産業の礎となった。

ここで日本映画の父と言われる牧野省三が、尾上松之助とコンビを組み、最初の作品「忠臣蔵」を撮影し、実力をつけた牧野はその後、京都を舞台に数々の名作を手がけるなど、日本映画の基盤が作られた。』

とある。この碑は平成9年11月、京都映画100年を記念して建てられた。