清水寺を辞し、茶わん坂(清水新道)から五条坂に出ると、日限地蔵尊の安祥院がある。


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安祥院は、木食正禅上人が享保10年(1725)に、南区久世の地から現在の地に移転し再興したとされる。

五条坂に面した山門には、左に「梅田雲浜先生墓当院内」、右に「日限地蔵尊」の石碑が建っている。

梅田雲浜(うめだ うんぴん)は幕末の儒学者で、若狭国小浜藩の出である。嘉永6年(1852)ペリーが浦賀沖に来航すると、
条約反対と外国人排斥の攘夷を唱え、尊皇攘夷の先鋒となった。

しかし、そのことで安政の大獄で二人目の捕縛者となり、京から江戸に送られた。江戸で拷問を受け、それにより45才で亡くなっている。

時世に
「君が代を おもふ心の 一筋に
     我が身ありとも 思はざりけり」
と詠んでいる。

雲浜の墓は全国にあるが、その一つがこの安祥院の中にある。

また本堂には、正禅上人が自作したと云われる阿弥陀如来像が、そしてその横にある地蔵堂には、「日を限って願い事をすると、必ず叶う」という、日限地蔵尊が祀られている。


 クリックで大きくなります

クリックで大きくなります その境内には、正禅上人自筆の大日三尊・光明眞言碑があり、その左に西京極、佃橋(旧天神川)から移された橋桁石が残されている。

正禅上人は、木食上人(米や野菜を食べずに、木の実や山菜のみを食べ修行をする僧をいう)の一人で、江戸時代中期の僧である。

この安祥院を再興したのを始め、真如堂の本堂横にある大仏の建立などを行った。

また土木にも業績があり、特に京の入口である日ノ岡峠の改修工事に尽力をつくした。

橋の改修も多く手がけ、西京極の旧天神川佃橋の橋桁が境内に残っていて、木食上人という文字が刻まれている。