さらにこんなものまであった。平安遷都1200年に当たり建てられた、阿弖利爲(アテルイ)と母禮(モレ)の顕彰碑である。


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碑文によると、

『8世紀末頃まで、東北北上川流域を日高見国と云い、大和朝廷の勢力圏外にあり、独自の生活と文化を形成していた。

朝廷は服属しない東北の民を蝦夷と呼んで蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。

胆沢(現、岩手県水沢市地方)の首領、大墓公阿弖利爲は近くの部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。

なかでも、延暦8年(789)の戦いでは勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。

延暦20年(801)坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により、胆沢に進出し胆沢城を築いた。

阿弖利爲(アテルイ)は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。

田村麻呂将軍は、阿弖利爲(アテルイ)と副将、盤具公母禮(モレ)を伴ない京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく朝廷に助命嘆願をした。

しかし、公家達の反対により阿弖利爲と母禮は、延暦21年(802)8月13日に河内国で処刑された。

平安遷都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく、異郷の地で散った阿弖利爲と母禮の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により、田村麻呂開基の同寺境内に建立す。

両雄もって冥さるべし。』とある・・・・・

               出展:【阿弖利爲(アテルイ)・母禮(モレ)の顕彰碑の碑文】より