少し清水さんから話はそれるのだが、仁王門を登った左側に、こんなものがあった。


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京都市街地図を作るための基準になる石である。京都市内に9ケ所設置された内、現存する唯一の物である。

『この石は明治8年(1875)内務省地理寮(後に地理局)により、英国の測量技術を導入して、京都市街地図を作成するために設置された基準点である。

地下に埋設されている基準点標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準点となっている。基準点一式の形状は三つの石組よりなり、現存する唯一の物で近代測量及び地図作成技術を知る上で貴重な歴史資料である。』とあり

『当時の測量では、京都市内に観測点を27点設け、基準点標石は9点設置した。

「清水」からは「高瀬七条上ル」・「六角堂」・「聖護院村」の各基準点を視準し測量した。』とある。

                       出展:【明治初期の基準点標石の説明板】より


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基準点の形状は三つの石組からなり、上から「表示石柱」、各側面には
西側面:測点
南測面:地理寮
東側面:明治八年
北側面:明治十五年八月建地理局
とある。

二つめの四角い石は「保護蓋石」で標石を保護するための物である。

「基準点標石」は、その下土中の中にあり、外からはその形状を見ることは出来ないが、測量時には、上の石を取って基準点標石の上部の対角線の中心を基準として、測量するのである。

夫々9ケ所に設けられた基準点標石も、開発の波に呑まれてしまい、その殆んどが無くなってしまったが、清水寺の境内だったということで、幸いにも壊されずに残った」ということであろうか。