慶応3年(1867)11月15日、河原町醤油商の近江屋で暗殺された、龍馬と慎太郎はこの霊山の地に並んで葬られている。

霊山の地では誰もがこの墓石を目当てに、足を運ぶ。特に命日である11月15日には龍馬祭が行なわれ、多くの人達が墓前に集り手を合わす。
向かって右が、中岡慎太郎道正之墓、左が、坂本龍馬紀直柔之墓、さらにその左、一段低い所に下僕、藤吉之墓が建っている。

霊山の地では誰もがこの墓石を目当てに、足を運ぶ。特に命日である11月15日には龍馬祭が行なわれ、多くの人達が墓前に集り手を合わす。
向かって右が、中岡慎太郎道正之墓、左が、坂本龍馬紀直柔之墓、さらにその左、一段低い所に下僕、藤吉之墓が建っている。
龍馬は慎太郎と共に、近江屋の2階で暗殺されるのだが、実はこの暗殺の一部始終を目撃した物が居るのである。
それは京都国立博物館が所蔵している、書や絵が複数枚張り合わされた屏風である。この屏風は暗殺の現場にあり、暗殺を今に伝える目撃者なのである。
2010年7月6日から19日まで、京都文化博物館の特別展「龍馬伝」に展示された実物を見に行ったものである。
またその年に、霊明神社の古書の中に、龍馬と慎太郎の遺体を霊山の地に実装したという記録が見つかり、龍馬と慎太郎それに下僕の藤吉は間違いなく、ここに眠っていることが判ったのである。

そこにあった駒札には、
『徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難十日前に醤油商近江屋新助方に転居した。
坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新撰組・見廻組らの追求が急となり、藩邸の堀内慶助tらの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
慶応3年(1867)11月15日、午後6時ごろ、中岡慎太郎が訪問。
この二、三時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前頭部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。
盟友・中岡慎太郎も全身に刀傷を負い、二日後の17日の夕がたに息を引き取った。
18日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。
坂本龍馬にまつわる逸話として、37年後の日露戦争の最中、昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の蔭が立ち現れて、「微臣坂本にございます。このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえ、ご安心願いあげます。」と言い残すと消えたという。
坂本龍馬、志士中の一級志士と云っても過言ではない。』とあった。
出典 坂本龍馬・中岡慎太郎の最期の駒札
それは京都国立博物館が所蔵している、書や絵が複数枚張り合わされた屏風である。この屏風は暗殺の現場にあり、暗殺を今に伝える目撃者なのである。
2010年7月6日から19日まで、京都文化博物館の特別展「龍馬伝」に展示された実物を見に行ったものである。
またその年に、霊明神社の古書の中に、龍馬と慎太郎の遺体を霊山の地に実装したという記録が見つかり、龍馬と慎太郎それに下僕の藤吉は間違いなく、ここに眠っていることが判ったのである。

そこにあった駒札には、
『徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難十日前に醤油商近江屋新助方に転居した。
坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新撰組・見廻組らの追求が急となり、藩邸の堀内慶助tらの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
慶応3年(1867)11月15日、午後6時ごろ、中岡慎太郎が訪問。
この二、三時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前頭部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。
盟友・中岡慎太郎も全身に刀傷を負い、二日後の17日の夕がたに息を引き取った。
18日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。
坂本龍馬にまつわる逸話として、37年後の日露戦争の最中、昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の蔭が立ち現れて、「微臣坂本にございます。このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえ、ご安心願いあげます。」と言い残すと消えたという。
坂本龍馬、志士中の一級志士と云っても過言ではない。』とあった。
出典 坂本龍馬・中岡慎太郎の最期の駒札
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