東山の維新の道から二年坂に50m程歩くと、左に折れる小さな坂道がある。この坂道は正法寺と霊明神社への参道となっているのだが、龍馬らの棺がこの坂道を通ったことから「龍馬坂」と呼ばれている。

龍馬が暗殺された3日後の、慶応3年11月17日に、中岡慎太郎,下僕の籐吉とともに近江屋にて葬儀が営まれ、棺は東山にある霊明社(現在の霊明神社)まで運ばれ、神道の様式で葬られた。
その時に、東山の霊明社に登るのに通ったのがこの坂で、今では「龍馬坂」と呼ばれている。

龍馬坂は途中から急な階段が続き、途中で一休みしないと登れない。
今は殆んどの人が維新の道から登り、この坂を通る人はいない。
二年坂は観光客がひしめいているのだが、そこから、ほんの少しだけ入っているこの坂道は人っ子ひとりいなく、龍馬の死を悲しむかのような静寂に充ちているのである。

その坂道の途中から振り返ると、八坂の五重塔がみえる。
東山からはこの五重塔が見えるのだが、その佇まいは京都らしい穏やかな中にも華やかさが漂っているが、ここから見る五重塔は何故かひっそりと幕末の騒乱期に殉節した人々を偲んでいるかのようである。

近江屋を出た三つの棺は、暗殺当日、龍馬や慎太郎と歓談し、所用で峯吉と供に近江屋で出て難を逃れた岡本健三郎が先導し、土佐藩邸、八坂神社を通り、東山の中腹にある霊明社へと向かうのである。
霊明社は勤王の志を持って亡くなった者の聖地で、説明文には、
『文化6年(1806)8月3日主殿寮の史生従六位上日向村上都愷(くにやす)大人が門人および神道有志のため、徳川幕府の政策下にありながら神道葬祭を断行し、神道信仰素志貫徹を図るため、
正法寺の塔頭清琳庵所有山林一千坪を買い受けて霊山神葬地を創設し、同年11月霊明神社を創建して神道葬祭を始める。
三代の神主村上都平(くにひら)大人の時、文久2年(1862)11月18日竹御所(曇華院)に仕える勤王家吉田玄蕃の志により、長州清末藩国学者船越清蔵守愚の墓を建立し、
長州藩主の使者と長州藩士の参列のもとに神道葬を営んだ。
これが機縁になって長州藩をはじめ殉難志士を当霊山に埋葬祭祀することになった。
文久2年(1862)12月14日神祇伯白川家の古川躬行(みゆき)や津和野藩の福羽美静(びせい)らの発起により、安政の大獄以降の殉難志士の「報国忠死の霊魂祭」が営まれ、招魂社また靖国神社創建の起源をなすものとなった。
「死して護国の神となる」「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬らることを如何に楽しとせし事ぞ」と霊明神社に葬られ、神霊として祀られることを無上の名誉と思ったのである。
明治政府が我が国最初の官祭招魂社の場所と定めたのは、霊明神社によって志士の神霊を鎮め、慰霊している聖地であったからである。
招魂社創建に伴い、霊明神社の約一千八百坪の墓地・境内地が上知となった。』とある。
出典 聖地霊山 霊明神社由来の説明文

龍馬が暗殺された3日後の、慶応3年11月17日に、中岡慎太郎,下僕の籐吉とともに近江屋にて葬儀が営まれ、棺は東山にある霊明社(現在の霊明神社)まで運ばれ、神道の様式で葬られた。
その時に、東山の霊明社に登るのに通ったのがこの坂で、今では「龍馬坂」と呼ばれている。

龍馬坂は途中から急な階段が続き、途中で一休みしないと登れない。
今は殆んどの人が維新の道から登り、この坂を通る人はいない。
二年坂は観光客がひしめいているのだが、そこから、ほんの少しだけ入っているこの坂道は人っ子ひとりいなく、龍馬の死を悲しむかのような静寂に充ちているのである。

その坂道の途中から振り返ると、八坂の五重塔がみえる。
東山からはこの五重塔が見えるのだが、その佇まいは京都らしい穏やかな中にも華やかさが漂っているが、ここから見る五重塔は何故かひっそりと幕末の騒乱期に殉節した人々を偲んでいるかのようである。

近江屋を出た三つの棺は、暗殺当日、龍馬や慎太郎と歓談し、所用で峯吉と供に近江屋で出て難を逃れた岡本健三郎が先導し、土佐藩邸、八坂神社を通り、東山の中腹にある霊明社へと向かうのである。
霊明社は勤王の志を持って亡くなった者の聖地で、説明文には、
『文化6年(1806)8月3日主殿寮の史生従六位上日向村上都愷(くにやす)大人が門人および神道有志のため、徳川幕府の政策下にありながら神道葬祭を断行し、神道信仰素志貫徹を図るため、
正法寺の塔頭清琳庵所有山林一千坪を買い受けて霊山神葬地を創設し、同年11月霊明神社を創建して神道葬祭を始める。
三代の神主村上都平(くにひら)大人の時、文久2年(1862)11月18日竹御所(曇華院)に仕える勤王家吉田玄蕃の志により、長州清末藩国学者船越清蔵守愚の墓を建立し、
長州藩主の使者と長州藩士の参列のもとに神道葬を営んだ。
これが機縁になって長州藩をはじめ殉難志士を当霊山に埋葬祭祀することになった。
文久2年(1862)12月14日神祇伯白川家の古川躬行(みゆき)や津和野藩の福羽美静(びせい)らの発起により、安政の大獄以降の殉難志士の「報国忠死の霊魂祭」が営まれ、招魂社また靖国神社創建の起源をなすものとなった。
「死して護国の神となる」「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬らることを如何に楽しとせし事ぞ」と霊明神社に葬られ、神霊として祀られることを無上の名誉と思ったのである。
明治政府が我が国最初の官祭招魂社の場所と定めたのは、霊明神社によって志士の神霊を鎮め、慰霊している聖地であったからである。
招魂社創建に伴い、霊明神社の約一千八百坪の墓地・境内地が上知となった。』とある。
出典 聖地霊山 霊明神社由来の説明文
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