近江屋跡にある駒札には、

この地は、慶応3年(1867)11月15日、維新の功労者である土佐藩海援隊長の坂本龍馬(1835~1867)が盟友である陸援隊長の中岡慎太郎(1838~1867)とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があった所である。
龍馬は、海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件により幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていたのである。
11月15日の夕刻、中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けた。
龍馬はその場で絶命し、中岡も2日後この世を去った。
龍馬33歳、中岡30歳、実に大政奉還(10月14日)が行われた1ケ月後、王政復古の大号令(12月9日)が出る1ケ月前の出来事であった。
龍馬と中岡は、ともに遭難した山田藤吉と、現在の京都霊山護国神社に埋葬されている。
出典 坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)の駒札

龍馬が裏の土蔵から母屋の2階に移って2日目の、慶応3年11月15日の夕(午後5時頃)中岡慎太郎が龍馬のもとを訪ねてくる。
龍馬と慎太郎が話していたところに、下横目の岡本健三郎もやって来て、三人で談笑をする。
(下横目「しもよこめ」とは、土佐藩の下士で地域限定の下級警官)
小半時(30分)ほどして、龍馬が「腹が減った」と、峯吉に軍鶏を買いに行かせる。
慎太郎も「俺も腹が減った。健三郎も一緒に食べよう」と誘うが、所用があると言って峯吉と共に近江屋を後にする。
小間使の少年、峯吉が軍鶏を買いに行ったという「鳥新」は、現在は縄手通四条上るにあるのだが、この当時は四条小橋の袂にあり、近江屋から歩いても5分位であった。
しかし軍鶏肉が売り切れで30分ほど待って、夜の9時に近江屋に戻った峯吉は、この惨劇の結末を見ることになる。

この地は、慶応3年(1867)11月15日、維新の功労者である土佐藩海援隊長の坂本龍馬(1835~1867)が盟友である陸援隊長の中岡慎太郎(1838~1867)とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があった所である。
龍馬は、海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件により幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていたのである。
11月15日の夕刻、中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けた。
龍馬はその場で絶命し、中岡も2日後この世を去った。
龍馬33歳、中岡30歳、実に大政奉還(10月14日)が行われた1ケ月後、王政復古の大号令(12月9日)が出る1ケ月前の出来事であった。
龍馬と中岡は、ともに遭難した山田藤吉と、現在の京都霊山護国神社に埋葬されている。
出典 坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)の駒札

龍馬が裏の土蔵から母屋の2階に移って2日目の、慶応3年11月15日の夕(午後5時頃)中岡慎太郎が龍馬のもとを訪ねてくる。
龍馬と慎太郎が話していたところに、下横目の岡本健三郎もやって来て、三人で談笑をする。
(下横目「しもよこめ」とは、土佐藩の下士で地域限定の下級警官)
小半時(30分)ほどして、龍馬が「腹が減った」と、峯吉に軍鶏を買いに行かせる。
慎太郎も「俺も腹が減った。健三郎も一緒に食べよう」と誘うが、所用があると言って峯吉と共に近江屋を後にする。
小間使の少年、峯吉が軍鶏を買いに行ったという「鳥新」は、現在は縄手通四条上るにあるのだが、この当時は四条小橋の袂にあり、近江屋から歩いても5分位であった。
しかし軍鶏肉が売り切れで30分ほど待って、夜の9時に近江屋に戻った峯吉は、この惨劇の結末を見ることになる。
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