京都上京区の三本木は、江戸時代には鴨川から東山を眺める風光明媚な地であり、後に桂小五郎(木戸孝允)の妻となる幾松などの芸妓がいた花街だった所である。

01土佐藩邸跡min
龍馬や慎太郎が京にいない間の京での土佐藩は、上士の乾退助(板垣退助)らが武力討伐を唱えていた。
板垣は薩摩の西郷隆盛や小松帯刀らと密談をし、武力による倒幕の密約を結ぶのだが、藩主の山内容堂は、武力倒幕を認めることなく土佐に帰ってしまう。
後藤象二郎は「船中八策」を薩摩藩に持ち掛けると、薩摩は内部事情からこれを認め、薩土盟約にと進んでゆく。
慶応3年6月22日に、三本木の料亭・吉田屋にて、薩摩藩から小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が、土佐藩から後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳が出席し、坂本龍馬と中岡慎太郎が立ち会いのもとに「薩土盟約」が結ばれる。

02三本木min
薩土盟約が結ばれた吉田屋は、駒札によれば、
『ここは維新史跡の料亭吉田屋の跡である。
幕末の頃、桂小五郎(後の木戸孝允)をはじめとする討幕派の志士たちが密会した場所として知られている。
元治元年(1864)蛤御門の変で敗れた長州藩は、その後勢力を挽回しようとして、種々の秘策をめぐらして京都に潜伏した。
こうした中で、乞食の身を装って世の動静を探っていた桂小五郎は、この吉田屋で勤王の志士と密会中に新撰組に襲われたが、幾松(後の松子夫人)の機転で裏階段を通り地下道に降り、鴨川の河原に逃れて事なきをえたといわれている。
この地下道は鴨川の増水による浸水を防ぐために工夫された頑丈な石造でいまでも昔の面影をしのぶことができる。』
                               出典 吉田屋跡の駒札

03高知城min
後藤象二郎は土佐に帰り、山内容堂に「薩土盟約」と「大政奉還」の建白を述べ、容堂の承認を得たが、幕府討伐の為の派兵には首を縦に振らなかった。
これは土佐藩の成り立ちが影響しており、藩祖の山内一豊が徳川家康より土佐一国を許され、その後の多くの試練も幕府の恩情で乗り越えて一豊以来15代続いた土佐藩であり、「朝に佐幕、夕べに勤王」と容堂の思いは変わり、倒幕一辺倒に舵を切れなかったのである。
このことが、土佐が薩長に対して遅れをとる要因となり、主たる人物が明治まで生きられなかったことが、土佐を政治の表舞台に立たせることが出来なかったのである。
土佐藩が倒幕の派兵を表立ってできないことが遠因となり、薩土盟約は3ケ月ももたずに解消され、薩摩藩は長州藩と組して武力倒幕へと邁進するのである。