田中光顕(たなか みつあき)は、江戸末期末期から明治、大正、昭和までを生きた、幕末最期の生き証人であった。

01高知城min
光顕は旧名を浜田辰弥といい、土佐藩家老佐川1万石、深尾家の家臣の家に生まれる。
浜田家の次男で梼原の郷士那須家の養子となった那須信吾とは叔父甥の関係である。
佐川の深尾家もまた、山内家の家臣の上士と深尾家代々の家臣の下士とがあり、浜田家は郷士で佐川では武士でも高知城下では、武士の扱いはされなかった。
長じて武市半平太が土佐勤皇党を立ち上げると、那須信吾の影響で佐川の同志と共に、これに加わる。
一時、藩命で京に上るが、土佐勤皇党への弾圧が激しくなり田中も僅か1ケ月で京から土佐に帰されている。
土佐の佐川で謹慎処分となり、悶々とした時を過ごすのだが、元治元年(1864)4月に土佐藩を脱藩し、長州へと逃れるのである。
長州では高杉晋作を師と仰ぎ、坂本龍馬や中岡慎太郎と共に、薩長同盟締結に尽力をする。
中岡が陸援隊を結成すると、それに加わるが数ケ月後に龍馬と共に慎太郎が京の近江屋で襲われると、その直後に近江屋に駆け付け中岡から話を聞いている。
それによると「下手人は新選組だが、誰であるかは判らない」というのだが、真実かどうかは疑わしい。
明治維新後は新政府に出仕し要職を転々とし最期は宮内大臣となり、伯爵まで登り詰めている。
政界を引退した後は、武市半平太の遺族を庇護し、幕末の同志たちの名誉を回復に尽力している。
また志士たちの遺墨・遺品などを集め、佐川の青山文庫や神奈川の旧多摩聖蹟記念館に、幕末の資料を寄贈し、昭和14年(1939)まで生き、志士最後の生き証人で唯一肉声が残っている人物である。