JR土讃線で高知駅から西に1駅の「入明」で降り、東に歩いて5分の高知市洞ケ島町に薫的神社がある。

01薫的神社min
山田橋にあった獄舎は、今、洞ケ島町の薫的神社の境内に残っている。獄舎が何故この神社にあるのかは、牢横の説明書きによると
『くんてき様がこの御牢で冤罪のために七年間御苦労されたと言われます。
今より三百十四年前、寛文十一年旧正月十日の明方、両手の親指をかみ切り、白無垢の小袖を引きちぎり、血を以て辞世を書かれ、その上御自ら舌をかみ切って、西の方、高知城をはったと睨み両眼を見開いた儘、坐禅を組んで御昇天されました。
享年四十七歳、伝説に依れば、七日七晩大暴風になったそうです。
此の建物は現在、はりまや町三丁目、旧山田町の牢ノ町にありましたが、明治初年、今の小津高校付近に移転、明治十七年高知城の西の刑務所に再移転。
この高知刑務所は昭和51年10月12日に高知市布師田に移転したので、現在城西公園となっています。
大東亜戦争中には、まだ実際に政治犯を収容していたもので、昭和25年11月27日に、当、薫的神社へ払下げを受け、大神様の当時の御辛苦を偲び奉り、信者の方々の修行道場として保存することになった建物です。』
                     出典:【薫的様御昇天の御牢の説明書き】より

02獄舎min
薫的和尚は土佐山内家の初期の頃の人物で、今ここに残る牢獄は、間崎滄浪、平井収二郎、弘瀬健太らが投獄され、村田忠三郎、久松喜代馬、岡本次郎らなどもここに繋がれていたのである。
岡田以蔵もまた、この獄舎に繋がれ拷問を受けている。
この頃には、土佐勤皇党は吉田東洋や京での暗殺容疑で、首領の武市瑞山を始めとし、多くの党員が捕らえられている。
人斬りと呼ばれた以蔵も連日拷問を受け、武市が「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と言ったように、女でも耐えれるような拷問にも泣き喚き、一連の暗殺に関わった同志の名を白状するのである。
獄舎に投獄されて1年余の慶応元年(1865)打ち首となる。享年28才であった。
時世の句は「君が為め 尽す心は水の泡 消にし後は 澄み渡る空」で、墓所は高知市薊野(あぞうの)真宗寺山にある。
拷問を受けその血と涙が染込んだであろう山田橋獄舎は、内を窺うことも出来ないが、志し半ばにして亡くなった勤皇の志士達の悲痛な叫び声が聞こえてきそうである。