坊城通を南に2分程歩くと「旧前川邸」がある。
この屋敷は新選組の創設当初から、池田屋事件を経て、西本願寺に移るまで新選組屯所として使われていた。

ここでは、入口すぐ横の部屋で、芹澤派の最後の人物であった副長助勤の野口健司を隊規違反と難癖をつけて腹を切らせている。
これで芹澤派は一掃されてしまったのである。
また元治元年(1864)7月に起る池田屋事件のきっかけとなった、古高俊太郎を捕らえ拷問に掛けたという土蔵も残っている。
また池田屋事件の後に、総長、山南敬助が脱走し、近江の大津で沖田総司らに捕まり隊規違反の罪で、この前川邸で切腹させられている。
この時の介錯人が沖田総司であったらしい。
切腹の前日に、島原の遊女、明里が山南に会いに訪れ格子ごしに別れを惜しんだというのも、山南の人柄がよく現れている逸話ではある。
ここは、個人の住宅で内部の見学は出来ないが、その当時のままの外観を見るだけでも、新選組がここに居たということを肌で感じとることが出来る。

旧前川邸にある説明板には、
『この屋敷は、文久3年(1863)から2年間、新選組の屯所となり、また新選組発祥の地ともなった。大変貴重な建物である。
浪士組(後の新選組)が壬生にやってきたのは、前川庄司の本家(京都六角)の影響が大きかったと考えられる。
前川本家は、掛屋として御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、いろいろな公職を兼ねていた為、奉行所や所司代などと、密接なつながりがあった。
上洛する浪士組の宿舎を選定するにあたり、市中情勢にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから前川本家が、その仕事を任された。
前川本家では、壬生の地が、京の町はずれでありながら、二条城に近いという点で、地理的条件にもあったことから、自分の身内である前川庄司の屋敷を提供、浪士組は、前川邸を中心に八木邸、南部邸(現存していない)、新徳寺に分宿した。
これが、新選組の出発となった。前川庄司邸では、家族全員が、本家への避難生活を余儀なくされた。
新選組の屯所となれば、当然勤皇方に襲撃される恐れがある。
前川邸を手に入れた新選組は守りを固めるため、屋敷に手を加え城塞化していった。
板塀であった屋敷を取り囲む塀は、そのほとんどを土塀に改築、西側だけにあった長屋門の出格子を、監視用に東側にもとりつけた。
母屋のほぼ中央にある納戸からは坊城通へ脱出できるよう抜け道も掘られた。
池田屋事件の後には、勤皇派の報復に備え、会津藩から借り受けた大砲までも備え付けたという。
池田屋事件の発端となった勤皇派の志士、桝屋喜右衛門こと古高俊太郎の取り調べが行われたのは、敷地の東南角に建つ東の蔵。
近藤勇が落書きしたと言われる雨戸も残されているが、屋敷のどこで使われていたかは不明。
最後の芹沢派、野口健司が切腹したのは、長屋門西の出格子のある部屋であった。
副長山南敬助が切腹したのは坊城通に面する出窓の奥の部屋であったが、山南の切腹を知らされ駆けつけた恋人明里と山南がその格子ごしに別れを惜しんだという出窓は今はもうない。
壬生から西本願寺へ屯所を移転する際、迷惑料として、前川家には十両が置かれたという。』
出典 新選組屯所(壬生村郷士、前川庄司旧邸)
この屋敷は新選組の創設当初から、池田屋事件を経て、西本願寺に移るまで新選組屯所として使われていた。

ここでは、入口すぐ横の部屋で、芹澤派の最後の人物であった副長助勤の野口健司を隊規違反と難癖をつけて腹を切らせている。
これで芹澤派は一掃されてしまったのである。
また元治元年(1864)7月に起る池田屋事件のきっかけとなった、古高俊太郎を捕らえ拷問に掛けたという土蔵も残っている。
また池田屋事件の後に、総長、山南敬助が脱走し、近江の大津で沖田総司らに捕まり隊規違反の罪で、この前川邸で切腹させられている。
この時の介錯人が沖田総司であったらしい。
切腹の前日に、島原の遊女、明里が山南に会いに訪れ格子ごしに別れを惜しんだというのも、山南の人柄がよく現れている逸話ではある。
ここは、個人の住宅で内部の見学は出来ないが、その当時のままの外観を見るだけでも、新選組がここに居たということを肌で感じとることが出来る。

旧前川邸にある説明板には、
『この屋敷は、文久3年(1863)から2年間、新選組の屯所となり、また新選組発祥の地ともなった。大変貴重な建物である。
浪士組(後の新選組)が壬生にやってきたのは、前川庄司の本家(京都六角)の影響が大きかったと考えられる。
前川本家は、掛屋として御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、いろいろな公職を兼ねていた為、奉行所や所司代などと、密接なつながりがあった。
上洛する浪士組の宿舎を選定するにあたり、市中情勢にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから前川本家が、その仕事を任された。
前川本家では、壬生の地が、京の町はずれでありながら、二条城に近いという点で、地理的条件にもあったことから、自分の身内である前川庄司の屋敷を提供、浪士組は、前川邸を中心に八木邸、南部邸(現存していない)、新徳寺に分宿した。
これが、新選組の出発となった。前川庄司邸では、家族全員が、本家への避難生活を余儀なくされた。
新選組の屯所となれば、当然勤皇方に襲撃される恐れがある。
前川邸を手に入れた新選組は守りを固めるため、屋敷に手を加え城塞化していった。
板塀であった屋敷を取り囲む塀は、そのほとんどを土塀に改築、西側だけにあった長屋門の出格子を、監視用に東側にもとりつけた。
母屋のほぼ中央にある納戸からは坊城通へ脱出できるよう抜け道も掘られた。
池田屋事件の後には、勤皇派の報復に備え、会津藩から借り受けた大砲までも備え付けたという。
池田屋事件の発端となった勤皇派の志士、桝屋喜右衛門こと古高俊太郎の取り調べが行われたのは、敷地の東南角に建つ東の蔵。
近藤勇が落書きしたと言われる雨戸も残されているが、屋敷のどこで使われていたかは不明。
最後の芹沢派、野口健司が切腹したのは、長屋門西の出格子のある部屋であった。
副長山南敬助が切腹したのは坊城通に面する出窓の奥の部屋であったが、山南の切腹を知らされ駆けつけた恋人明里と山南がその格子ごしに別れを惜しんだという出窓は今はもうない。
壬生から西本願寺へ屯所を移転する際、迷惑料として、前川家には十両が置かれたという。』
出典 新選組屯所(壬生村郷士、前川庄司旧邸)
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