碑文:表(北)「天満宮降誕之地」/裏(南)「明治八年六月再建」

01石碑mid
「天満宮降誕之地」の石碑は、この辺りに菅原家の邸宅があり、菅原道真がここで生れた所を示している。
菅原道真は承和12年(845)、菅原是善(すがわらのこれよし)と伴氏の三男として生れ、幼くして学問に優れ、11歳で漢詩「月夜に梅華を見る」を読み、14歳で「朧月独興」を詠んだという。
朝廷に仕え、文章博士(もんじょうはかせ)などを務め、その才能を大いに発揮し、学者としても高い評価を受ける。
寛平2年(890)、宇多天皇から側近として抜擢され、政治の世界でも重要な役割を担うようになり、順調に昇進をするのである。
昌泰(しょうたい)2年(899)道真は右大臣に昇進し、左大臣・藤原時平と肩を並べる地位に就く。
ところが昌泰4年(901)醍醐天皇を廃して、娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った(昌泰の変)として、九州の大宰府に左遷されるのだが、これは藤原時平の讒言(ざんげん他人を陥れるための流言飛語)によるものと云われる。
道真は無実を訴えが京へ戻ることは出来ず、延喜3年(903)に大宰府にて59歳で亡くなるのである。
死後、京都では醍醐天皇の皇子の薨去(こうきょ)や時平の長男の死去、清涼殿の落雷や火災などの災害が相次いだため、人々は「道真の怨霊によるものと恐れられ、道真の霊を鎮めるため、北野天満宮が創建されることになる。
その後、道真は「天神様」として信仰されるようになり、学問の神様として「天満宮」として全国で信仰されるようになる。

02管天神mid
この神社は菅原道真公を祀る神社で、もともと菅原家の邸宅があった場所であり、道真公誕生の地とも云われ産湯の井戸が残されているというが・・・
前にも道真公が産湯に使った井戸があるという、京都御苑の西にある「菅原院天満宮神社」があったのを思い出した。
菅原道真の誕生については諸説あり、生まれた場所も、菅大臣神社(下京区)や菅原院天満宮神社(上京区)、吉祥院天満宮(南区)また奈良の善光寺(奈良市菅原町)などがあり、この場所も菅公生誕の地とされているのだが、どの地が真実なのか興味深いところである。

03本殿mid
駒札によれば、
『この地は、約一千年前、天神様すなわち菅原道真公(845~903)の紅梅殿、白梅殿というお邸や、菅家廊下と称する学問所の跡で、また公、誕生の地と伝えられ、境内には産湯の井戸が保存されている。仏光寺通を中心に南北二町、東西一町の広さがあったと云う。
公、大宰府へ左遷に当たり
東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ
と詠まれた飛梅の地である。神社は、道真公没後、間もなく創立されたが、度々兵火にかかり、鎌倉時代には、南北に分かれ、こちらを「天神御所・白梅殿社」、北社を「紅梅殿社」と呼んでいた。
応仁の乱後の慶長19年(1614)に菅家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興され今日に至っている。
この間、天明の大火、元治の兵乱で焼失するが、現本殿は、天保6年(1835)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を、明治2年(1869)に移築し、その後、幣殿を建立して、いわゆる八棟造をなしている。』
                          出典:【菅大臣神社の駒札】より

所在地:京都市下京区仏光寺通新町ん西入管大臣町187-1
京都駅から
▼「B2」乗り場から50系統で、『西洞院仏光寺』下車(所要9分)
「西洞院仏光寺」から、徒歩2分