碑文:五條西洞院月輪本荘 親鸞聖人御入滅之地 花園殿旧跡」
親鸞聖人(鎌倉時代:1173~1263)は、浄土真宗の宗祖で、法然上人の教えを受け念仏の教えを深め、人みな南無阿弥陀仏と念仏を唱えると極楽浄土に行けるといい、「善人なおもて往生す いわんや悪人をや」と分かりやすい教えで、多くの人々に阿弥陀仏の救いを説いた。
晩年を京都で過ごし、弘長2年(1262)900歳でその生涯を閉じ、その地がるのである。
親鸞聖人が入滅されたとされる地がここで、光圓寺の門前に石碑が建つ。

01石碑mid
松原通西洞院東入に光圓寺(こうえんじ)はある。
光圓寺は、関白・九条兼実の別邸「月輪本庄花園殿」があった所で、親鸞は若い頃ここに住み、兼実の娘・玉日君(たまひぎみ:親鸞の妻とされる人物だが、近年は越後国の三善為教の娘ともいう))と暮らし、晩年、越後から京に戻った後も住居として住み、ここで入滅したという。
光圓寺には、常陸国の大部平太郎(おおべのへいたろう)なる熱心な信者が、主命により熊野詣に参拝しなければならなくなり、熊野詣の是非を親鸞聖人に尋ねるために、関東から京都にやってきたという場所が「五条西洞院のあたり」とされることから、それが光圓寺だったと伝えられている。
ここで親鸞は平太郎に、弥陀に向かい一心に「南無阿弥陀仏」を唱えよと説くのである。

02光圓寺mid
親鸞は承安3年(1173)に日野(京都市伏見区)に生まれ、9歳のときに出家して比叡山に入り、修行生活を送る。
しかし、自らの力だけで悟りに至ることの難しさを感じ、29歳のときに比叡山を下り、東山吉水の法然上人に教えを乞い、その教えを深く受け止め、生涯を念仏の教えととも歩みだすのである。
承元元年(1207)、承元の法難によって法然とその門弟たちは流罪となり、親鸞も越後国へと流される。
建歴元年(1211)に赦免されると、親鸞は関東へ移り、現在の茨城県を中心とする地域で20年にわたり念仏の教えを広める。
晩年に京都に戻った親鸞は、浄土真宗の根本聖典とされる「教行信証」を執筆し、弘長2年(1262)11月28日に京都で90歳の生涯を終える。
その最期の地とされているのが、「親鸞聖人御入滅之地」の石碑が建つ光圓寺である。
ただ、親鸞聖人の入滅地については複数の伝えがあり、中京区にあったとされる善法院や、右京区の角坊なども親鸞聖人の入滅地と伝えられ、その史実は定かではない。

所在地:京都市下京区松原通西洞院東入藪下町(光圓寺門前)
京都駅から
▼「B2」乗り場から50系統で、『西洞院松原』下車(所要8分)
「西洞院松原」から、徒歩1分