龍馬伝に新選組が登場する。その回の紀行に登場するのが、新選組発祥の地「壬生」である。
坂本龍馬と新選組との出会いは殆どないと言ってもいいのだが、ただ龍馬暗殺の下手人ではないかと疑われるのだが、事実にはほど遠いようである。

京都駅から「26」または「28」系統の市バスに乗り「壬生寺道」で降り、坊城通を2分程歩くと八木邸がある。
新選組の始まりは、荘内藩士の清河八郎が江戸で浪士組を結成し、14大将軍家茂の上洛に従い京に来るのだが、その中に新選組を起こす芹沢鴨や近藤勇、土方歳三などが加わっている。
しかし京に着いた清河八郎の本心は尊皇攘夷であることが分かり、徳川幕府は浪士組を江戸に呼び戻すことになる。
それに反した芹沢、近藤ら14名はそのまま京に留まり、将軍警護と浪士の取り締まりにあたることを願い出て、会津藩預りの身分で、壬生の八木源之亟のはなれを屯所としたのが、新選組の始まりである。
八木邸にある駒札には、
『ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新選組の宿所があったところである。
文久3年(1863)春、将軍家茂の上洛警護のため、清河八郎の率いる浪士組が入洛したが、その宿舎の一つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった当屋敷であった。
浪士組は、在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警備のため残留し、京都守護職松平容保の支配に属して「新選組」と名のった。
当初、新選組は、当屋敷に「新選組宿所」の表札を掲げ、隊員はわずか十数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。
以後、市中の治安維持に務め、元治元年(1864)の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。
翌年の慶応元年(1865)4月、屯所は西本願寺にうつされた。』
出典 新選組発祥の地跡の駒札
坂本龍馬と新選組との出会いは殆どないと言ってもいいのだが、ただ龍馬暗殺の下手人ではないかと疑われるのだが、事実にはほど遠いようである。

京都駅から「26」または「28」系統の市バスに乗り「壬生寺道」で降り、坊城通を2分程歩くと八木邸がある。
新選組の始まりは、荘内藩士の清河八郎が江戸で浪士組を結成し、14大将軍家茂の上洛に従い京に来るのだが、その中に新選組を起こす芹沢鴨や近藤勇、土方歳三などが加わっている。
しかし京に着いた清河八郎の本心は尊皇攘夷であることが分かり、徳川幕府は浪士組を江戸に呼び戻すことになる。
それに反した芹沢、近藤ら14名はそのまま京に留まり、将軍警護と浪士の取り締まりにあたることを願い出て、会津藩預りの身分で、壬生の八木源之亟のはなれを屯所としたのが、新選組の始まりである。
八木邸にある駒札には、
『ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新選組の宿所があったところである。
文久3年(1863)春、将軍家茂の上洛警護のため、清河八郎の率いる浪士組が入洛したが、その宿舎の一つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった当屋敷であった。
浪士組は、在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警備のため残留し、京都守護職松平容保の支配に属して「新選組」と名のった。
当初、新選組は、当屋敷に「新選組宿所」の表札を掲げ、隊員はわずか十数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。
以後、市中の治安維持に務め、元治元年(1864)の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。
翌年の慶応元年(1865)4月、屯所は西本願寺にうつされた。』
出典 新選組発祥の地跡の駒札
コメント