碑文:台座に「大伴家持卿碑・丈夫は 名をし立つべし 後乃世に 聞きつぐ人も 語りつぐがね・鶉鳴く 故りにし里より 思へども 何ぞも妹に 逢ふよしもなき」
伏見稲荷大社の神域内にある伏見神宝神社の社殿左側に、上部に大伴家持の像がありその台座に刻まれている。
碑文の歌「丈夫は 名をし立つべし 後乃世に 聞きつぐ人も 語りつぐがね」(ますらおは なをしたつべし のちのよに ききつぐひとも かたりつぐがね)は、
万葉集の巻十九・四一六五に載る歌で「ますらお(立派な男子)たる者は、名を立てなければならない、後世の人々がその名を聞き継ぎ、さらに語り継いでくれるように」という意味である。
また、「鶉鳴く 故りにし里より 思へども 何ぞも妹に 逢ふよしもなき」(うづらなく ふりにしさとより おもへども なにそもいもに あふよしもなき)は、
万葉集の巻四・七七五に載る、大伴家持が紀女郎(きのいらつめ)に贈った歌で、「鶉(うずら)が鳴く、懐かしい故郷の里にいるころから、あなたのことを思っているのだが、何故あなたに 逢う手立てもないのだろう」という意味である。
大伴家持(718頃~785年)は奈良時代の貴族・歌人で、代々朝廷の軍事や警護を担ってきた大伴氏の出身であり、父は有名な歌人の大伴旅人である。
家持も官人として朝廷に仕えるとともに、多くの歌を残している。
万葉集にも深く関わり、万葉集4,500首の内、480首を詠んでいる。
万葉集の最後の歌・巻二十・四五一六の「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事」(あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと)
の歌は、大伴家持の歌であり、「新しい 年の初めの初春の 今日降っているこの雪のように ますます良いことが重なりますように」の意味である。
伏見稲荷大社は、全国にある稲荷社の総本家であり、五穀豊穣、商売繁盛の神として参詣者が絶えることがない。
初詣には、全国でも三本の指に入る人出で賑わいをみせるのである。
楼門を抜けると拝殿越しに本殿が望める。伏見稲荷大社は官幣大社で、菊の御紋が随所に見られる。
和銅4年(711)に、この稲荷山の地に神を祀ったことに始まる神社でその由緒は古い。
本殿は、こんなところまで影響を及ぼした応仁の乱で焼失したが、明応8年(1499)に再建され国の重要文化財となっている。
伏見稲荷の由縁は、駒札によると、
『全国に約三万社あるといわれる稲荷神社の総本宮で、宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)を主祭神に、佐田彦大神(さだひこのおおかみ)・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)・田中大神(たなかのおおかみ)・四大神(しのおおかみ)の四大神を祀る。
奈良時代の和銅4年(711)に秦氏が稲荷山上に創祀し、後にこの地に社殿が造営されたという。
仁寿2年(853)の雨祈奉幣以来、朝廷から度々、勅使が遣わされ、五穀豊穣、家業繁栄の神として庶民の深い信仰を集めた。
古くから山全体が信仰の対象とされる稲荷山には、清少納言も詣でたことが「枕草子」に記されており、願い事が「通る」という意味から、多数の朱の鳥居が奉納され、今日に至っている。
応仁の乱で焼失した本殿は、明応8年(1499)に再建された後、幾度かの修造を重ね、現在は重要文化財に指定されている。
また、御茶屋は後水尾院から拝領し、当社に移建された御所の御殿で、これも重要文化財となっている。
楼門は、豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就したため寄進したものである。
現在は特に商売繁盛の神として信仰を集め、正月には多くの人々が初詣に訪れるほか、2月の初午祭(ふつうまさい)、5月3の稲荷祭、11月8日の火焚祭(ひたきさい)も多くの参詣者でにぎわう。』
出典:【伏見稲荷大社の駒札】より
石碑の建つ「伏見神宝神社」は、駒札によると、
『当社は、稲荷山を背にする古名丸山(笹山)に鎮まる社である。
天照大神(あまてらすおおみかみ)、稲荷大神(いなりおおかみ)、十種神宝(とくさかんだから)を祀り、社名神宝は、神授十種神寶に由来する。
祝詞(のりと)に「布留部由良由良、玉響(たまゆら)かして、死(まか)れる人も反(かえ)りて生きなん」とあり、神山に抱かれ、五体に宿る魂魄(たましい)を振り起す処に、神徳(しんとく)を見いだす鎮魂の神社である。
神域には、縄文弥生を彷彿とさせる磐境(いわさか)、神明造の社、竹の神明鳥居、叶え雛と称する願掛雛、かぐや姫絵馬が献ぜられ、丸山笹論の天井に、深草産竹墨による天地自然を表す象形文字画、月の座と題す螺鈿漆(らでんうるし)屏風、中世まで存在した社を描く屏風、拝殿に深草憧憬(しょうけい)絵、記紀に神語る墨書天井、神殿に源平盛衰記(14世紀)に語る草童人形、竹取の迦具夜姫大土鈴、陽炎を表す鏡があり、事物共に自然(おのずから)なる営みを表し、風水の循環を見立てる狛龍、磐境、磊(らい)が存る。
この社も応仁の乱後、笹群磊磊(ささむららいらい)と化したが、昭和32年(1957)社殿が蘇った。
竹の下道に沿う最中伊笹群竹黄(もなかいささむらたけあさみどり)清々しい静宮である。』
出典:【伏見神宝神社の駒札】より
所在地:京都市伏見区深草藪之内町68番地
京都駅から
▼JR奈良線で、『稲荷』下車(所要5分)
「稲荷」から、すぐ



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