碑文:表(北)「高瀬川 開鑿者 角倉氏邸址」/右(東)「大正五年五月建之 京都市教育会」/左(南)「寄附者 田中市蔵」
角倉了以は、天文23年(1544)から慶長19年(1614)を生きた京都の豪商で、茶屋四郎次郎や後藤庄三郎と共に、京の三長者といわれた人である。
角倉と茶屋は南蛮貿易で、後藤は徳川の金座にかかわりいずれも莫大な富を築いた。
角倉了以といえば、商人の顔よりも保津峡や高瀬川を開鑿した人物としてよく知られている。
その人の屋敷が木屋町通りのこの辺りにあった。

01角倉邸跡mid
角倉了以は商人というよりも、水運の土木事業を手掛けた人物として有名である。
安南国(現、ベトナム)との貿易である御朱印船の第一船を慶長9年(1604)に出すなどし、事業の土倉(土倉とは、現在の質屋のように担保をとり、金を貸し出す業のこと)も順調で商人としても成功していたが、家督を息子の素庵に譲って後の河川の開削事業で、後世にその名を残したのである。
主だったものに、
慶長11年(1606)保津川・大櫃川の開削完成
慶長12年(1607)富士川疎通完成
慶長13年(1608)天龍川開削は未完成
慶長16年(1611)高瀬川の開削完成
了以翁の名を有名にした高瀬川の開削が終って3年後、61才にて亡くなっている。

02水利碑mid
角倉了以が、慶長16年(1611)に、京の二条から鴨川の水を、伏見まで流す高瀬川を開削し、京都と伏見の水運を開いたのである。
この了以の功績を顕彰せんが為に、高瀬川が宇治川派流に注ぎ込む宇治に「角倉了以水利紀功碑」が建っている。
碑文は漢文だが、その意味を口語体に訳してくれたものがあり、それを意訳してみると、
『角倉了以は名門の家に生れ、洛西の富豪であり、経済に明るく、河川や土地の測量に長じていた。深い川を浅くし、水路を開き船が通行できるようにした。
豊臣氏が方広寺大仏殿を再建するとき,資材の運送に困ったが、了以は鴨川に船を通し巨大な材木を運ぶことを提案し、この運送を一見した人はみな偉業だと感じた。
さらに慶長16年徳川幕府の認可を受け、鴨川に水路を開き、北は二条から南は伏見に至る長さ2754丈、幅21尺の水路を開いた。
京都に入るには、東からは逢坂山を越え、西からは高瀬川を利用した。
逢坂山経由はけわしい山道で牛や車は苦しめられた。
高瀬川は平坦で利便性がよく、高瀬舟は川にひしめきあった。もし一日この川を舟が通れなくなったら京都の物価は高騰するほどであった。
江戸幕府はその功績により,将軍謁見の特典を与え,角倉家に高瀬川の管理を委託し、これが三百年続き、同家はますます栄えたのであった
明治維新で角倉家は職を免じられたが、依然として高瀬川は廃止されることはなかった。
その業は京都の河川輸送の中心であり、これに頼り生活する者は数百人を下ず、まさに「同時代の人からは偉業をたたえられ、しかも後世の人には恩恵を与えるような事業」であった。
                出典:【京都市角倉了以水利紀功碑の碑分の大意】より

所在地:京都市中京区木屋町通二条下る西側
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・205系統で、『京都市役所前』下車(所要15~23分)
「京都市役所前」から、徒歩3分