碑文:表(東)「史蹟 高瀬川一之舩入」/右(北)「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ昭和九年一月文部大臣指定」/左(南)「昭和十年十月建設」

01石碑mid
高瀬川は、慶長19年(1614)に角倉了以によって開墾された、二条から伏見までの10kmの運河である。
ここを通る高瀬舟の荷物の積み下ろしの為に設けられたのが「舟入」といわれる場所である。
二条から四条までの間に九つの舟入があったが、唯一現存するのがこの一之舟入である。
高瀬川を上り下りした船が、平底でとも、よこが低い高瀬舟である。その大きさから、大体10石位の船であろうか。
高瀬川の名はここを通る船の名が「たかせ」という名であり、その船の通る川なので高瀬川となったといわれている。

02高瀬舟mid
高瀬舟というと、森鴎外の小説「高瀬舟」が浮かぶ。
「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。・・・」というくだりで始まる。京の罪人を大阪に送るのに、高瀬舟に乗せ護送するのである。
その舟の中で、同心羽田庄兵衛と罪人喜助とが安楽死と知足(足るを知る)についての話が中心となって進んでいく話である。
短編なのですっと読めるので一度読んでにてはと思う。
高瀬舟は。
「・・・次第に更けていく朧夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。」で終わる

03源流mid
高瀬川は鴨川の水を引き入れて運河をなしているのだが、調度このあたりが高瀬川の源流となっている。
角倉了以の別邸だったこの庭苑を、鴨川からの水が通り木屋町を潜って一之舟入に出るのである。
今、がんこ二条苑と料亭になっているこの庭苑は、角倉了以から山縣有朋の別荘、第二無鄰庵となり、この時に名庭師の小川治三郎の手が入っている。
その後、川田日本銀行総裁、阿倍首相の別邸と変遷し、今、料亭として、がんこ寿しの所有で、第二無鄰庵跡または高瀬川源流庭苑となっている。

04舩入mid
駒札には、
『川の西方の掘割を一之船入という。高瀬川は慶長16年(1611)頃、角倉了以が開いた運河で、ここを通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所を船入といった。
角倉氏は保津峡の開発等数々の土木工事に成功しており、京都の中心部に物資を運びいれるためこの川を開いたもので、このあたりを起点として鴨川の水をとり入れ、鴨川に平行して十条まで南下し、さらに鴨川を横断して伏見に通じていた。
底が平たく舷側の高い高瀬舟が盛時には百数十艘が上下し、大阪などの物資を運びいれた。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多くの問屋が立ち並んで賑わい、船入はこの一之船入をはじめ数箇所に設けられた。
明治以後、高瀬川は舟運の目的を失ったが、両岸に柳を植えた景観は京都の情緒の大きな要素となっている。
一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。』
                        出典:【高瀬川一之船入の駒札】より

所在地:京都市中京区木屋町通二条下る西側上樵木町
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・205系統で、
 『京都市役所前』下車(所要15~23分)
「京都市役所前」から、徒歩5分