碑文:表(西)「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」/裏(東)「大正拾五年四月 陸軍少将山口鹿太郎建立」
/右(南)「維新征東ノ殊勲国民皆兵ノ提唱京阪地方兵備ノ創建者タル公ハ明治二年九月四日当十番路次内ニテ反賊ニ襲ハレ重傷遂に薨去セラル」
木屋町御池上るにある料亭「さつき」ここはもと長州藩の控え屋敷で、維新の後は大村益次郎が常宿として使用していたところである。
碑文中で「十番路次」と記されているが、史料や大村の伝記には「二番路次」と記されている。

01益次郎公遺址mid
大村益次郎(村田蔵六・1825~69)は、周防国鋳銭司村(山口県)の村医の子として、文政8年(1825)に生まれる。
弘化3年(1846)、大坂の緒方洪庵の適塾に学び、塾頭にまで進んでいる。
嘉永6年(1853)ペリー率いる黒船が浦賀沖に現われた時に、宇和島藩で西洋兵学を講義し、安政3年(1856)に江戸に出て、幕府の講武所教授となる。
文久3年(1863)長州に帰り、騎兵隊の創設や軍制改革に着手し、幕府の長州征伐を有利に戦い、長州藩を勝利へと導くのである。
戊辰戦争では、上野に籠った彰義隊を1日で鎮圧をする。
明治になり、兵制に持論があった益次郎の献策は悉く退けられるのだが、軍事に関しては益次郎に変わるべき人材はなく、兵部省の兵部大輔(現在の次官)に就任し、日本の軍制の礎を築くのである。
しかし明治2年(1869)8月、三条木屋町の旅館で急進的な改革に不満を持つ、元長州藩士ら8名により、会食中に襲われ重症を負い、手当の甲斐もなく11月に45才で生涯を閉じるのである。

所在地:京都市中京区木屋町通御池上る東側
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・205系統で、
 『京都市役所前』下車(所要15~23分)
「京都市役所前」から、南東に徒歩5分