碑文:表(西)「武市瑞山先生寓居之跡」/左(北)「武市半平太(月形半平太)」
吉村寅太郎の住いした処のすぐ横、「ちりめん洋服発祥の地」とともに、この石碑が建つ。木屋町三条上ルの料亭「金茶寮」のある場所で、当時は料亭丹虎の離れがあった所である。
武市瑞山、別名を武市半平太といい、「月さま、雨が」「春雨じゃ、濡れていこう」という台詞で有名な映画の、月形半平太のモデルになった人物でもある。
土佐出身の人で、坂本龍馬、中岡慎太郎や吉村寅太郎などと、土佐勤皇党を作り、藩内の主流であった公武合体派を退け藩論を尊王攘夷に導いた。
文久2年(1862)に16代土佐藩主、山内豊範に従って上洛し、木屋町の土佐藩邸に入る。
その年の8月に、藩邸から、この三条木屋町に寓居を構え、尊皇攘夷を推し進める。
武市半平太が一番活躍した頃の寓居跡で、現在は「金茶寮」という料亭となっており、半平太ゆかりの間が存在している。
この時期に、武市半平太は、天誅、斬奸と称した暗殺を、岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛などに命じている。
文久2年8月、吉田東洋暗殺事件を捜査中の土佐藩の下横目・井上佐一郎を大坂心斎橋の上で絞殺する。この時岩崎弥太郎も同行していたが難を逃れている。
文久2年閏8月、特定の藩に属さず、幕府に通じているとして、越後の志士・本間精一郎を木屋町通の紙屋橋付近で斬殺。
文久2年閏8月、安政の大獄で島田左近の手先として多くの志士を摘発した、目明し猿(ましら)の文吉を三条河原に連れ出して絞殺し、晒し首にする。
文久2年9月、安政の大獄で長野主膳・島田左近らと共に志士を摘発した、京都町奉行所与力の渡辺金三郎・森孫六・大河原重蔵・上田助之丞の4人が、天誅から逃れるために京都から江戸へと転任する途中、石部宿(現、滋賀県湖南市)まで来た夜に30数名の浪士が襲い殺害する。
文久2年11月、島原遊郭近くの村山加寿江(村山たか)の家を襲い、長野主膳の妾で、多田帯刀と共に安政の大獄で、志士弾圧に加わった村山加寿江を三条大橋の袂に生き晒しにし、その子、鹿苑寺(金閣寺)の寺侍、多田帯刀を殺害する。
などの天誅に関わっている。
しかし何といっても土佐藩参政の吉田東洋を暗殺したことが、後々に禍根を残すことになるのである。
武市瑞山は文久元年(1861)に、坂本龍馬、中岡慎太郎や吉村寅太郎などと、土佐勤皇党を結成し、土佐藩を尊王攘夷に動かそうとする。
そにお頃の土佐藩は、公武合体を唱えていた家老の吉田東洋が政治の中心に居り、武市とは政治適に対立をする。
武市は、土佐藩の山内一族の守旧派や家老の柴田、五藤らと木にゃ区を通じ吉田東洋の失脚を画策するが叶わず、文久2年(1862)城から帰る東洋を、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助が待ち伏せて斬殺し、一時的に土佐藩を尊王攘夷へと導くのである。
しかしこの事件が尾を引いて、文久3年(1863)8月18日、尊王攘夷派の公家や長州藩が京を追われることになり、土佐藩でも山内容堂ら公武合体派が政治を握ると、土佐勤王党は一転して弾圧されることとなり、吉田東洋暗殺に関わった者として、文久3年(1863)に捕らえられ、1年8ケ月nを獄中で過ごし、慶応元年(1865)閏5月、切腹を命じられ37歳の生涯を閉じるのである。
辞世の句は、「ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」である。
所在地:京都市中京区木屋町通三条上る上大阪町530
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
『河原町三条』下車(所要13~20分)
「河原町三条」から、北東に徒歩4分



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