碑文:表(西)「吉村寅太郎寓居之址」/右(南)「昭和三年五月」/左(北)「京都市教育会」
吉村寅太郎(1837~63)は、土佐藩出身の尊王攘夷派の志士で、武市瑞山の勤王党に加わり、寺田屋事件で土佐に送還され、再度上洛し、中山忠光・藤本鉄石等と天誅組を組織し倒幕の兵をあげるが、40日余りで大和国吉野で敗死をする。
この石標は吉村寅太郎が京で住まいした寓居跡を示す、
吉村寅太郎は、土佐国高岡郡芳生野村(現、高知県高岡郡津野町)の庄屋の子として生まれる。長じて城下に出て、武市半平太に剣術を学び、文久2年(1861)に土佐勤皇党が設立されると、これに加わる。
文久2年(1861)に土佐藩を脱藩をするが、有馬新七らが斬られた寺田屋の事件で捕まり、土佐藩に引き渡される。
その後、文久3年(1862)3月にその身を許されると、再び京に戻り、この地に住いし、尊皇攘夷の中心人物として、各藩の志士を集め倒幕を画策する。
孝明天皇の大和行幸に会わせ一機に倒幕の狼煙を挙げようと、文久3年8月17日に、大和国五条の代官所を襲撃するのである。
ところが、翌18日に京では政変が起こり、尊皇攘夷の公家が京を追われ(七卿落ち)、時の流れは公武合体へと進んでいく。天誅組に未だ時利あらず、幕府の討伐軍により壊滅するのである。
吉村寅太郎は、高取藩攻撃で負傷し、9月24日に鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と戦闘となり、天誅組の殆んどがここで戦死し、吉村も27日に津藩兵に発見され射殺される。
享年27才で、辞世の句は、
「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」
駒札には、
『この地、すなわち、もと木屋町三条上る三十五番路地は、幕末の勤王志士吉村寅太郎が文久3年(1863)に仮住まいをしていた場所である。
このあたりは、高瀬川の舟運によってにぎわい、幕末の志士たちの絶好のかくれ家となったところで、付近に武市瑞山・佐久間象山・桂小五郎などの寓居跡があり、池田屋もほど近い。
吉村寅太郎は土佐(高知県)の人で、庄屋の生まれ、武市半平太の教えをうけて勤王党に加わり、文久2年には土佐を抜けだして入洛、尊王攘夷運動に加わった。
寺田屋事件で一たん帰国したが、文久3年3月再び上洛してここに住み、尊王攘夷運動の中心の一人として活躍し、各藩の志士を集めて討幕軍を組織した。
同年8月、中山忠光らと天誅組を起して、大和五条(現、奈良県五条市)の幕府代官所を占領した。
しかし、京都政界の変化によって討伐をうけ、9月16日、大和鷲家口で戦死した。
時に年27才。』
出典:【天誅組 吉村寅太郎寓居跡の駒札】より
所在地:京都市中京区木屋町通三条上る東側
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
『河原町三条』下車(所要13~20分)
「河原町三条」から、東に徒歩4分


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