碑文:表(東)「佐久間象山先生遭難之碑 大村益次郎卿遭難之碑 北へ約壱丁」/右(北)「昭和十年壱月吉辰」/左(南)「新三浦 白井凌三建之」
三条小橋のたもとに、佐久間象山と大村益次郎の遭難の碑が建っているが、実際はこの碑より北へ一丁ほど行ったところに、二人の遭難の碑が建っているのである。
この碑はその碑への道しるべなのである。
『佐久間象山(1811~1864)は信州松代藩士で、儒学や朱子学を修め、洋学や砲術を学び、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰ら多くの俊才を輩出した。
元治元年(1864)に上洛し、開国論を唱え公武合体を進めていたが、時は池田屋事件の直後でいきりたっていた攘夷派は、象山の説をも受付ず、同年7月11日に木屋町通を馬に乗って通りかかった時に、刺客に襲われて斬られ絶命する。
大村益次郎(1825~1869)は、益次郎は周防国(山口県)長州藩士、家は医者であったが、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となり、幕末の長州軍を率い、また戊辰戦争の指揮に活躍した。
維新後に、明治政府の兵部大輔(ひょうぶだいふ)となり、近代兵制(国民皆兵など)の創立に尽力した。
しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治2年(1869)9月4日、木屋町通の東側にあった宿所で刺客に襲われて斬られ、その傷がもとで、同年11月5日大阪の病院で没した。』
出典:【佐久間象山・大村益次郎遭難之碑の駒札】より
木屋町御池上ルに佐久間象山遭難之碑が建つ。隣には明治2年(1869)に木屋町三条の旅館で不平士族に襲われ亡くなった、大村益次郎の遭難碑も建っている。
佐久間象山は長野松代藩の人で、幕末の洋学の第一人者であった。
佐久間象山は江戸のお玉が池に、私塾「象山書院」を造り、吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之など、後の日本を担う人物が多く学んでいた。
元治元年(1864)に入洛し、公武合体と開国を一橋慶喜に説いた。
しかし勤皇の志士からは西洋かぶれとみられており、同年7月11日白昼に、三条木屋町にて、前田伊右衛門、河上彦斎の手に掛かって53才で暗殺される。
肥後藩の河上彦斎(かわかみ げんさい)も人斬り彦斎と呼ばれたが、幕末に暗躍した、薩摩藩の中村半次郎と田中新兵衛、そして土佐藩の岡田以蔵とをいれて、幕末の四大人斬りと称される。
大村益次郎は長州の人で明治維新に活躍した、日本陸軍の創始者とされている。明治2年9月4日に三条木屋町上るの旅館で刺客に襲われ重傷を負い、同年11月5日に46才で亡くなっている。木屋町御池上るにある料亭「さつき」ここはもと長州藩の控え屋敷で、維新の後は大村益次郎が常宿として使用していたところである。
所在地:京都市中京区三条通木屋町北西角
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
『河原町三条』下車(所要13~20分)
「河原町三条」から、東に徒歩6分



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