碑文:表(北)「高山彦九郎先生皇居望拝趾 蘇峯菅原正敬書」/裏(南)「建碑趣旨・この建てられた趣旨文が刻まれる」
三条大橋東詰に、高山彦九郎皇居望拝之像があり、その姿から土下座をしていると思われ「土下座像」とも呼ばれ、京都人の待ち合わせスポットとなっている。
初代の像は、昭和3年(1928)昭和天皇の御大典を祝し建てられたのだが、太平洋戦争中の昭和19年(1944)に金属供出のために供出されるが、像銅撤去にあたり、銅像の跡を示すために徳富蘇峰の揮毫になる「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」の石碑が置かれる。
現在の遥拝像は昭和36年(1961)に再建されたものである。
裏に刻まれた碑文は、
「今上陛下御即位大礼を記念奉祝し大義昂揚の目的を以て、国士高山先生皇居奉拝の銅像建設を企図し、聖駕(せいが:天皇陛下)旧都(京都)に臨幸(行幸)あらせ給ふ、昭和三年十一月八日御安息日の嘉辰(かしん:良き日)をとし除幕式典を挙行す。
製作は渡辺長男、台石の設計は武田五一両先生に委ね、同士・井上正之助、大塚圭八、鷲野米太郎、白崎栄次郎、日暮正路、須賀井正治、関庄作外各氏の賛成を得て汎く(あまねく:広く)天下に浄金を募り、本台上に身長一丈三尺(約4m)大の人物半踞(はんきょ)像を二寸(3cm)の台座と共に、高サ六尺三寸(1.9m)の大銅像を鋳造す。
爾来、十有七年年々此日を以テ記念祭を継続執行し国民思想の掖導(えきどう:良い方向に導く)に務む。
偶々大東亜戦争勃発し金属供出の国家的必要に迫られるや、即ち国士の心を体し召に応す。
時ニ昭和十九年春季皇霊祭の日なり。」とある。
江戸中期の人で、まだ幕府の力が強い時代に、尊王の思想を持ち全国を回り九州の久留米で自害をして果てたという人である。
延享4年に、上野国新田郡細谷村(現、群馬県太田市)に生まれ、13才で「太平記」を読んで勤皇の志を抱くようになる。
18才で家を出、日本各地を勤皇論を説いて巡る。
幅広い人脈を持つが、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関し、公家中山愛親(なるちか)の知遇を得たことから幕府に注意人物と見做され、九州各地を巡り日田で捕らえられたろし、寛政5年(1793)、久留米の友人宅で自刃をする。
林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と呼ばれる。(奇人とは、賢い人という意味である)
銅像の碑文には、
『江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。
今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747年~1793年)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。
18歳の時以来、前後5回、上洛したが、京都に出入する折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
その姿は。
「大御門(おおみかど)その方(かた)向きて橋の上に 頂根(うなね)突きけむ真心たふと」橘 曙覧(たちばな あけみ)と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡(りよう:民間で歌われている歌)、サノサ節には、「人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上 遥かに皇居をネ伏し拝み 落つる涙は鴨の水 アサノサ」と謡いつがれた。』
出典:【高山彦九郎皇居望拝之像碑文】より
所在地:京都市東山区大橋町三条
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
『河原町三条』下車(所要13~20分)
「河原町三条」から、東に徒歩6分


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