碑文:表(南)「坂本龍馬寓居之趾」/右(東)「昭和三年三月」/左(西)「京都市教育会」
坂本龍馬が京都に滞在中に身を寄せたのが「酢屋」という材木商であった。
酢屋は代々、嘉兵衛の名を名乗り、幕末の当主六代目嘉兵衛は材木業を営む一方で、高瀬川の水運を利用した運送業も営んでいた。
酢屋の前には高瀬川の舟入があり、荷の積み下ろしで賑わっていたと云う。
当時の高瀬川沿いには、土佐藩や彦根藩、加賀藩などの藩邸が建ち、また伏見を経て大坂にも格好の地であった為に、主人、嘉兵衛の理解と援助により、龍馬はこの酢屋を京都での住いとしたのである。
慶応3年(1867)6月には、姉の乙女に対し「酢屋」に住んでいる旨を手紙に記している。
また海援隊の京都本部をここに置き、長岡謙吉、岡本健三郎、菅野覚兵衛(土佐)、陸奥宗光(紀伊)、白峰駿馬(越後)など多くの隊士が出入りしていたと云う。
海援隊は、坂本龍馬が長崎で組織した亀山車中を発展させたもので、貿易や海運事業を行うとともに、「日本を今一度せんたくいたし申候」と日本の将来をも見据えていた。
酢屋は龍馬や海援隊士たちの情報収集や、人と会ったり、政治活動を進めたりする重要な拠点であり、酢屋は、高瀬川の水運、近くに諸藩の藩邸が集まり、信頼できる商家という条件を満たしていたのである。
慶応2年(1866)薩長同盟の締結仲介した坂本龍馬は、慶応3年(1887)6月に才谷梅太郎の名で酢屋に身を寄せ、2階から高瀬川に向けピストルの試し打ちをしていたという。
しかし、龍馬の周辺には新選組や京都見廻組などの探索の目が及ぶようになり、慶応3年11月に、酢屋から土佐藩邸に近い近江屋へ移るのだが、11月15日、近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃され、龍馬33才、慎太郎30才あった。
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された後の、慶応3年12月に起きた「天満屋事件」でもこの酢屋の2階に海援隊・陸援隊の隊士が集り事を起こしている。
所在地:京都市中京区河原町通三条下る一筋目東入北側
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
『河原町三条』下車(所要13~20分)
「河原町三条」から、徒歩3分



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