碑文:表(南)「維新 史蹟 池田屋騒動之址」/右(東)「京都市教育会」/左(西)「京都市教育会」/裏(北)寄附者 昭和二年十一月 佐々木フサ」
河原町三条を東に入ってすぐのところに、新選組を一躍有名にした池田屋騒動があった池田屋の跡がある。現在の景色からは、とても100数十年前にこんな凄惨な切りむすびがあったとは思えない。唯、その昔を偲ぶかのように、石碑が一つ静かに建っているのみである。

01石碑mid
元治元年(1864)6月5日(祇園祭の宵々山:現在の7月15日)に起った池田屋騒動は
三条小橋たもとの池田屋に集っていた勤皇派が20余名に対し、近藤率いる新選組は10名、表と裏に6名を残し池田屋に切り込んだのが、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名であった。
20数名と4人では、普通であれば数の上では圧倒的に勤皇派が有利ではあるのだが、突然の踏み込みと暗闇とで人数の把握が出来ず、また最初に切りかかった者が沖田に一刀のもとに切り倒されたことから、逃げ腰になったものと思われる。

02三条小橋mid
この池田屋騒動で、勤皇方は
池田屋で闘死
肥後熊本藩士:宮部鼎蔵(45才、自刃)・松田重助(45才、闘死)
播磨林田藩士:大高又次郎(44才、闘死)/伊予松山藩士:福岡祐次郎(闘死)
土佐藩士:北添佶摩(30才、闘死)
三条大橋で闘死
土佐藩士:石川潤次郎(29才・三条大橋で闘死)
脱出後闘死
長州藩士:吉田稔麿(24才:自刃)/長州神官:広岡浪秀(24才:死亡)
土佐藩士:望月亀弥太(27才:自刃)
の9名が闘死または自刃している。
長州の桂小五郎は騒動の数時間前に池田屋を訪ねるが、早かった為、対馬藩邸を訪ねて難を逃れている。
一方、新選組では
裏を固めていた、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革佐衛門の三人が、ここから逃げる浪士たちによって、奥沢が斬られ他の二人も深手を負い、一月後に亡くなっている。 
この事件により明治維新が3年遅れたといわれる。

03見取図mid
池田屋動顛末記によれば、
『元治元年(1864)6月5日(祇園祭宵々宮 現7月15日)早朝、新選組は、四条小橋西で薪炭商を営む升屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所に連行し、土方が厳しく取調べた結果、御所を焼き討ちし守護職の松平容保を襲う計画が発覚する。
近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、夜五つ刻(9時頃)に祇園会所で会津藩兵と待ち合わせる。
しかし会津藩は約束の五つになっても来ない為、近藤は近藤隊を鴨川西側木屋町を北へ、土方隊を鴨川東側縄手を北へと二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅篭等を御用改めして行った。
一方、倒幕派は、新選組の屯所を襲撃し古高を奪還すべしと、潜伏中の倒幕派に、三条小橋西の旅篭「池田屋」に集合するよう回状が送られる。
近藤隊が三条小橋付近に付いたのが十時頃、宿屋「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、十名のうち、六名で表口、裏口をかため、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四名で屋内へ。
近藤が「御用改め」であると告げると、主人の池田屋惣兵衛が二階に駆け上がり、後を追って近藤が二階に上ると、諸藩の倒幕派二十数名がいて、沖田が立ち向かってきた男を斬り、すぐに乱闘になった。
屋内で闘う者、二階から外に飛び降りる者、階段を駆け下りる者、これを隊士が迎え撃つ。
途中から土方隊らが加わり、闘いは三時間ほど続き、近藤隊からは1名死亡、藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他六名が慙死した。
この事件で倒幕が1年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被り、一方、この事件によって新選組の勇名は世に轟くことになった。』
                       参照:【池田屋騒動顛末記の説明】より

の後、池田屋は人手に渡り、佐々木旅館として営業していたが、佐々木旅館も廃業し建物は取り壊され、跡地はテナントビルやパチンコ屋など転々としたが、現在は居酒屋となっている。

2007年5月の池田屋跡で、パチンコ屋となっている。
04池田屋(1)mid

2009年1月の池田屋跡、パチンコ屋はなくなり空きビルとなっている。
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2010年3月の池田屋跡、「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」という居酒屋が営業し、今に続いている。
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所在地:京都市中京区三条通木屋町西入北側
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
 『河原町三条』下車(所要13~20分)
「河原町三条」から、徒歩3分