「ここはお國を何百里」の歌いだしで歌われる「戦友」は、作曲:三善 和気・作詞:真下飛泉で明治38年(1905)に作られた軍歌で、舞台は日露戦争の中国遼東半島での戦いの時である。
この碑は昭和2年(1927)に、真下飛泉の終焉の地の近くである良正院門前に、真下の教え子1,824人により建てられたものである。
「戦友」は、
「ここはお國を何百里 離れてとほき満州の 赤い夕日にてらされて 友は野末の石の下」と始る。
歌詞は14番まであるのだが要約すると、
ここは日本を何百里も離れた遠い満州で、赤い夕日に照らされた野原の石の下に、
思えば昨日まで、真っ先に突進し敵を懲らしめた勇士が、ここに眠っている。
戦いの最中に、隣に居た戦友が俄かに倒れたのをみて、自分は思わず駆け寄って、
軍隊では許されないが、見すてることが出来ず「しっかりせよ」と抱き起こして、弾の飛び交う中で手当をした。
その時に、突撃の命令が出、戦友は涙して「お國のためだかまはずにおくれてくれな」と・・・
心は残るのだが、ここに留まることは出来ず「それじゃ行よ」別れたが、それが最期の別れとなってしまった。
戦いがすんで日が暮れて、生きていてくれ、何か言ってくれと願いながら、探しに戻ったのだが・・・
戦友は冷たくなり、魂は故郷へ帰ったのだが、ポケットの中の時計だけがコチコチと動いているのも虚しい。
ここで場面は変わり・・・
思えば去年船出して日本が見えなくなった時に、玄界灘で手を取って名前を名乗ったのが最初だった。
それからは、煙草も分けてのみ、手紙も見せ合って、身の上話も繰り返し話した。
肩を抱いては口ぐせに、どうせ命は無いものと、死んだら骨を拾ってくれと言い交わした仲であった。
「筆の運びはつたないが 行燈(あんど)のかげで親達の 讀まるる心思ひやり 思はずおとす一雫」と締めくくられる。
戦友の作詞者・真下飛泉(ましもひせん)は、明治11年(1878)に京都府加佐郡河守町(現、京都府福知山大江町)に生れ、京都師範学校を卒業し、小学校教師・校長・中学校教師を務め、長く教育の仕事に携わった人物である。
また文学にも熱心で、与謝野鉄幹に師事し短歌を学び明星派の影響を受けている。
明治37年(1904)に叙事唱歌第一編として「出征」が出版され、その三作目として「戦友」が出版されている。
晩年には、京都市議会議員を務め、京都市議在職中に48才で亡くなっている。
歌碑の建つ良正院は、
『知恩院の塔頭。岡山藩主池田忠雄公の母、良正院殿(徳川家康公の娘とく姫池田輝政公夫人)の追福の為、徳川秀忠公の許を得て宗把和尚を開基として寛永8年(1631)建立された。
廊下は鶯張りで金箔襖絵は三益と伝えられる。
本堂表門は昭和』61年5月国の重要文化財の指定を受ける。
勤王の志士奥田萬次郎氏が自刃したのは、竹の間である。
門前の「戦友」の歌碑は作詞者真下飛泉氏の終焉の地に近く、氏の教え子1824名が顕彰して昭和2年(1927)建立した。
文字は「肉弾」等の著者桜井忠温氏である。
終戦後歌詞が軍国長であるとして、進駐軍より破壊を命じられたが、当時の住職細井照道師の弁護により破壊を免れ、今ここにある。』
出典:【良正院由来】より
所在地:京都市東山区新橋通大和大路東入る三丁目林下町
京都駅から
▼「D2」乗り場から86系統で『知恩院前』下車(所要23分)
「知恩院前」から、華頂通を東に徒歩6分



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