碑文:表「会津小鉄之墓」
黒谷さんの搭頭である西雲院の墓所に、会津小鉄のお墓があった。
特に見に行ったということでなく、会津藩殉難者墓地を見に行った道すがら、こんな所に会津小鉄のお墓があるのを見つけたのである。

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会津の小鉄こと、上坂仙吉は幕末の侠客で(今でいう暴力団とは少し質が違う)文久2年(1862)に会津中将、松平容保が京都守護職として上洛した頃に、会津屋敷に入り込んで中間として働く一方。会津印の半纏を着て、賭場あらしなどをやっていたらしい。
持った長脇差が曽根虎徹であったところと短矩から、小鉄と仇名され、いつしか会津の小鉄と呼ばれるようになったとある。
鳥羽伏見の戦で敗れた会津藩士の無残に曝された遺体を収容し、手厚く葬ったとされている。
会津の小鉄というテーマで映画にもなり、歌にも歌われた人物がこんなところに眠っているとは驚きであった。

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銘文に、
『本名上坂仙吉、天保四年大阪に生れ、父は東国浪士と聞くがその顔を知らず。
母もまた、仙吉幼少にして旅に死す。
少年にして大阪を捨て江戸を経て、京都下京区三ノ宮通りに住居を置き、京の顔役、大垣屋清八に見込まれ男を売る。
文久2年、会津藩主、松平容保候、京都守護職として千兵を率いて当黒谷に本陣を置くや、其の知遇を受け、若年にして元締となる。
会津候の為、亦新選組の影の協力者として活躍、幕末動乱の京洛の地に其の侠名謳われ会津の小鉄と呼ぶ。
蛤御門の変及び伏見鳥羽の戦に兵糧方及び戦死傷者の収容の任に就いて参戦、蛤御門の変には会津侯より感状を授る。
特に伏見鳥羽の戦には会津軍敗退するや、其の戦死者の遺体は朝敵の汚名の元、世人は後難を恐れ、戦場の雨露に晒され、無残にも放置されたるを配下を動員し死を決して探索、収容、埋葬すると言う美挙がある。
明治十八年三月十九日洛北、北白河に没す。享年五十三才。』
                        出典:【銘文 会津小鉄の駒札】より

所在地:京都市左京区黒谷町121
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統で『東天王町』下車(所要23分)
「東天王町」から、丸太町通を西に徒歩15分