碑文:表「会津藩殉難者墓地」

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金戒光明寺の唐頭・西雲院には会津藩士の墓所があり、幕末の京都で斃れた二百三十七霊と鳥羽伏見で戦死した百十五霊を祀った、会津藩殉難者墓地がある。
京都守護職の本陣を金戒光明寺に置き、家臣一千名を駐屯させ京の治安を守ることになったが、会津家臣の犠牲も多くこの地に墓所を設けその菩提を弔うこととした。

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その由来は、
『幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
文久2年(1862)閏8月會津藩主松平容保公は十四代将軍徳川家茂から京都守護職に任ぜられ、同12月24日、家臣一千名を率いて京都に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒光明寺に威風堂々と入陣した。
黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や栗田口にも近く軍事的要衝の地であった。
また、大きな寺域により一千名の軍隊も駐屯することができた。
当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝(るつぼ)と化していたが、守護職となった會津藩の活動には目を瞠(みは)るものがあり、翌年8月18日には激派の公郷を追放し、元治元年(1864)6月には守護職配下の新選組による「池田屋騒動」、7月18日19日の「禁門の変」の勝利などで治安は回復されてきた。
しかしながら會津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。
そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。
その数は文久2年から慶應3年までの六ヵ年に二百三十七霊をかぞえ、後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀した。
松平容保公は孝明天皇の御信任厚く禁裏洛中を挙藩一致して大義を明らかにし、會津軍の忠誠は、歴史にその名を残した。
この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為に、この碑に由来を誌す。』
                           出典:【會津墓地の由来】より

所在地:京都市左京区黒谷町121
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統で『東天王町』下車(所要23分)
「東天王町」から、丸太町通を西に徒歩15分