碑文:表(東)「千利休居士聚楽屋敷趾」/裏(西)「平成十六年十月居士十四世官休庵千宗守」/左(北)「晴明神社の地は千利休宗易居士が聚楽屋敷を構え茶事を催し茶湯に用いたとされる井戸が現存する旧跡である」/右(南)「平成十五年神幸祭晴明少年鼓笛隊々長 奉仕記念 晴明神社御鎮座壱千年祭奉賛会会長」

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千利休(1522~91)は豊臣秀吉に仕え、秀吉が天正14年(1586)に聚楽第を造営すると、その周囲に屋敷をを構え聚楽第で茶会を催したという。
江戸時代の茶人・山田宗偏(そうへん)が記した「茶道要録」には、屋敷の位置を「葭屋(よしや)町通元誓願寺下ル」とあり、現在の晴明神社に隣接するあたりだと云われ、その跡に「千利休居士聚楽屋敷趾」の石碑が建っている。

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千利休は大永2年(1522)、和泉国・堺(現在の大阪府堺市)の、裕福な魚問屋の家に生まれ、幼名は与四郎(よしろう)、のちに宗易(そうえき)と名乗る。
若くして茶の湯を武野紹鴎(たけのじょうおう)に学び、当代一の茶人となる。
やがて茶頭(さどう:茶道を統括する役職)として織田信長に仕え、信長の死後は、豊臣秀吉に重用され、天下一の茶人として政治や外交にも関わることになる。
聚楽第で数多くの茶会を催し、天正15年(1587)には、北野天満宮で「北野大茶湯」が開催されると、利休はその準備や運営を担い、茶の湯を武士から庶民まで広く普及させた。

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しかし天正19年(1591)、突然、秀吉から堺の自邸に蟄居を命じられ、前田利家、古田織部、細川忠興らの助命嘆願も空しく、天正19年(1591)聚楽屋敷にてで切腹を命じられ、屋敷の近くの一条戻橋で、梟首(さらしくび)にされている。享年70才であった。
切腹の理由は定かではないが、政治的思想の離反や美意識の違いなどで、大徳寺の山門に安置した利休の木像事件などが語られるが、真相は不明である。
利休の死後、茶の湯は子孫へと受け継がれ、三千家(表千家・裏千家・武者路千家)が現在に続いている。

所在地:京都市上京区葭屋(よしや)町通一条上る(晴明神社内)
京都駅から
▼「B1」乗り場から9系統で『一条戻橋・晴明神社前』下車(所要23分)
「一条戻橋・晴明神社前」から、徒歩1分