碑文:表(南)「大極殿遺址」/裏(北)「明治弐拾八年十月廿二日 京都市参事会建」
大極殿は、平安京の中心であった平安宮朝堂院の正殿で、平安京遷都の延暦13年(794)に建設され、翌年に完成する。
天皇が国家の重要な儀式を執り行う、最も格式の高い建物で、即位式、元日の朝賀、外国使節の謁見、国家の重要な法会などが行われ、平安京の政治と儀礼の中心であった。
大極殿は、東西59m、南北24mに及ぶ朱塗りの宮殿で、朱塗りの柱や組物、屋根の大棟両端には鴟尾(しび)をのせ、軒先や棟には緑鮮やかな緑釉瓦で縁取りされた豪壮華麗な建物であった。
しかし、平安時代中期になると政治の中心は内裏や里内裏へ移り、大極殿で行われる儀式は次第に減少してゆき、火災による焼失と再建を繰り返すのだが、安元3年(1177)の大火で焼失した後は再建されることなく、歴史の中に埋没するのである。
ここに、明治28年(1895)の平安遷都1,100年記念事業で建てられた「大極殿遺址」の石碑があるのだが、石碑は大極殿北側回廊付近に位置し、大極殿の中心は現在の千本丸太町交差点付近であったことが判明している。
石碑の横に建つ駒札には、
『この一帯は、平安京の中心大内裏跡で、朝堂院の正殿大極殿がこの付近にあった。
朝堂院とは、朝廷の儀式の行われる中心場所で、周囲を廻廊でとりかこみ、南は朱雀大路に向かって応天門が開かれ、北に昭慶門があり、中に十二の建物が東西対象に配され、北中央に南面して大極殿があった。
大極殿は朝堂院の正殿として、即位をはじめ毎年の朝賀、斎会など国家の最も大切な儀式が行われた御殿である。
最初の建物は延暦14年(795)頃完成、壮麗をきわめた。
その後大極殿は貞観18年(876)、天喜6年(1058)と火災にかかり、そのつど再建されたが安元3年(1177)の火災で焼失してからは再建されず、この付近一帯は荒野となった。
第三期の第曲殿跡は、ほぼ千本丸太町付近と推定されている。
現在、左京区岡崎にある平安神宮の建物は、朝堂院の面影を復元したもので拝殿は第曲殿を模している。(ただし大きさは昔の約三分の二である。)』
出典:【大極殿跡の駒札】より
源氏物語のガイドマップには、
『平安京の北中央にある平安宮は、南北約1.4Km、東西約1.2Kmあり、周囲を「隍」(ほり:濠)と「ぜん地」(ぜんち:犬走・空地)及び高い築地塀で囲まれ、正門である朱雀門ほか14の門が設けられていた。
平安京中央部にある朝堂院の正殿は、平安宮内最大の建物である大極殿で、中央には玉座である高御座(たかみくら)が置かれていた。
ここに天皇が御して、様々な国家行事が行われたが、安元3年(1177)の大火後は再建されず、大極殿の儀式は内裏の紫宸殿で行われるようになる。
発掘調査では、大極殿に取り付く東軒楼(こんろう)跡や、朝堂院の北門である昭慶門の東側回廊跡の凝灰岩の基壇石などが検出され、その成果から、内野児童公園内に明治28年(1895)に建てられた「大極殿遺蹟」の碑は、昭慶門西側回廊跡上に建っていることが判明している。
出典:【源氏物語ゆかりの地 GUIDE MAP】より
千本丸太町の交差点の北西角にある説明板によれば、
『平安宮で最も重要な施設である朝堂院の正殿「大極殿」は、平安京遷都の翌年、延暦14年(795)には完成。
天皇の即位式のほか、正月に行われる朝賀や御斎会、外国使節の謁見等、国家の重要な行事がここで行われた。
弘仁6年(815)には、地方から19,800人余りの役夫が動員されて大掛かりな修理が行われ、このとき初めて屋根に緑釉瓦が採用されたものと考えられる。
その後、貞観18年(876)4月16日夜半の火災で焼失。元慶3年(879)10月に再建(第2次)されたが、康平元年(1058)2月26日に再び火災が発生し、応天門と左方の楼を残して焼失。
さらに延久4年(1072)4月15日に再建(第3次)された大極殿も、安元2年(1117)4月28日に焼失し、以後は再建されなかった。
創建当初の大極殿は、東西11間、南北4間の寄棟造りの建物とみられ、基壇の大きさは推定東西59m、南北24m、朱塗りの柱や組物、屋根の大棟両端には鴟尾(しび)をのせ、軒先や棟には緑鮮やかな緑釉瓦で縁取りされた豪壮華麗な建物であった。
大極殿の位置は、最近まで千本丸太町交差点の北側付近と推定されていたが、近年の発掘調査で、朝堂院内のいくつかの建物跡が見つかり、さらに建都から1200年目にあたり1994年には、初めて大極殿の基壇が地表下0.6mで確認され、現在ではほぼその位置が明らかとなっている。』
出典:【大極殿跡の説明板】より
所在地:京都市中京区千本通丸太町通上る小山町
京都駅から
▼「A3」乗り場から206系統で『千本丸太町』下車(所要23分)
「千本丸太町」から、南徒歩1分




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