碑文:表(北)「勤皇志士 平野國臣外数十名終焉之址」/右(東)「京都市教育会」/左(西)「昭和三年九月」
ここには六角獄舎があり、この獄舎で平野国臣はじめ古高俊太郎・長尾郁三郎等三十数名の志士が斬首されたもので、この石碑は勤皇の志士の終焉ちを示すとともに、六角獄舎がここにあったことを表すものである。

01六角獄舎mid
六角獄舎は平安時代の左獄・右獄に由来する牢獄で、正式名称は三条新地牢屋敷と言い、度々の移転を繰り返し、宝永5年(1708)に中京区六角通神泉苑西入南側に移転して、六角獄舎と呼ばれ幕末まで牢獄として使用された。
安政の大獄(1858年)では、六角獄舎に多くの政治犯や勤皇志士を収容し、阪本龍馬と恋仲だったお龍さんの父、楢崎将作も安政の大獄に連座してここに収監されている。
元治元年(1864)7月19日の「禁門の変」で生じた火災が京都市中に広がり、火勢が「六角獄舎」に迫る恐れが生じるや、「火が堀川まで迫ったら、重罪人を斬首せよ」と京都西町奉行の滝川具挙(ともたか)は志士達の脱走を恐れて斬首するのである。
この時斬られたのが、生野の変にて捕えられた平野國臣や、池田屋の変の発端となった古高俊太郎、足利氏木像梟首(きょうしゅ)事件の長尾郁三郎、天誅組の変の水郡善之祐(にごりぜんのすけ)など30数名にのぼった。
余談だが、斬首を命じた滝川具挙はその後、大目付に昇進し鳥羽伏見の戦いで幕府軍の指揮をとっている。

02平野mid
平野国臣(くにおみ)は、文政11年(1828)福岡藩の足軽の子として生まれる。
福岡藩士の頃は、尚古主義(日本古来の制度や文物を尊び、これを模範とする思想)に傾注し、外見や行動も異様だったという。
安政5年(1858)に、京で西郷隆盛と出会うことで勤皇思想に目覚め、志士活動を始めることになる。
この頃に、月照と西郷が薩摩から日向へ送られる船に同乗し、月照と共に入水した西郷を助けている。
京の都では、8月18日の変(文久3年:1863)長州藩と攘夷派の公家が追放され、攘夷派は壊滅状態となる。
この前日に、中山忠光・吉村寅太郎らの天誅組が、大和で五条代官所を襲っており、国臣は、これと同調すべくように動くが失敗する。
その後、10月12日に但馬生野にて挙兵するも、豊岡藩に捕らえられ京の六角獄舎に捕われの身となり、元治元年(1864)7月20日に斬首されるのである。

03駒札mid
駒札には、
『幕末尊皇攘夷派の指導者平野国臣が処刑された所である。
この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。
国臣は、もと福岡藩士で、尊皇攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。
ところが同年7月19日、長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって、京都市中の大半が兵火に見舞われ、その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや、幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士 たちを斬った。
この時斬られた一人が国臣である。
この難にあったものは、国臣のほか古高俊太郎、長尾育三郎、水郡善之祐ら三十数名にのぼった。
なお、当地は、宝暦4年(1754)に、医師山脇東洋が、わが国で初めて死体解剖を行ったところとも言われ、付近には記念碑も建っている。』
                      出典:【平野國臣殉難の地の駒札】より

所在地:京都市中京区六角通大宮西入
京都駅から
▼「A3」乗り場から206系統で『みぶ操作場前』下車(所要17分)
「みぶ操作場前」から、徒歩5分