碑文:表「新選組之墓 當寺」
壬生の旧前川邸から綾小路通を東に5分程歩くと、光縁寺がある。
その門前にこの石碑が建っている。
創建は、慶長18年(1613)頃といわれ、門前に新選組の馬小屋があったことから、隊士の行き来も多く、特に副長の山南敬助と住職の良誉上人と深交があったことから、山南を始めとして、亡くなった隊士を埋葬し弔ったのである。
隊士の墓石は27体あるのだが、勤皇の志士との斬り合いで亡くなったのか、粛清で詰め腹を斬らされたのか、思い起こすよすがもないが、光縁寺と新選組は深い関係にあったのである。
光縁寺と新選組には、
『当寺の門前近くに新選組の馬小屋があり、毎日、門前を新選組の隊士達が往来し、その中には、総長の山南敬助もいた。
山門を見上げれば、瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」の山南家と同じ家紋が目に入った。
当時の住職は22世・良誉上人で年齢も山南と同じであった。
この時代、莚に巻かれた死体が、良く当寺門前に放置されていた。(馬小屋近くの旧家の古い伝え)
それは、葬式を出せない困窮した人たちが、この寺の住職が死人であっても分け隔てなく弔っていたのを、知っていたのである。
この住職・良誉上人と、新選組の中であっても穏やかな山南敬助との間に、親交が生まれたのは当然の成り行きかも知れない。
その山南の紹介で、屯所で切腹した隊士達、三人目には山南自身、その後多くの新選組関係者が良誉上人に弔われ、当寺に埋葬されることになった。
(光縁寺に埋葬される以前の者は、壬生村の共同墓地に埋葬された。)
しかし、その後墓地は、明治新政府軍に暴かれ、伊東甲子太郎ら御陵衛士一派の死体は掘り起こされて、京都東山にある泉涌寺塔頭戒光寺の墓地に運び去った。』
出典:【光縁寺と新選組】より
所在地:京都市下京区綾小路大宮西入四条大宮町37
京都駅から
▼「C6」乗り場から28系統、または「D3」乗り場から26系統で『四条大宮』下車(所要12分)
「四条大宮」から、徒歩6分


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