地蔵院の山門横に
「義商天野屋利兵衛之墓・豊公愛樹五色八重散椿 此寺にあり」「夜半亭巴人墓所」と「洛陽三十番 地蔵院」の三つの石碑が建つ。

01石碑mid
「義商天野屋利兵衛之墓」
天野屋利兵衛は、赤穂浪士の討ち入りを助け、幕府に捕えられても討ち入りの日までは「天野屋利兵衛は男でご座る」と、白状しなかったという人物で、その墓といわれる寺が、京都には二つある。
ひとつは、寺町仏光寺上ルにある「錦綾山聖光寺」でもうひとつがここ地蔵院(椿寺)である。
天野屋利兵衛とは、赤穂藩出入りの大阪商人で、義に厚く赤穂浪士の吉良邸討入りを助けたという人物で、赤穂浪士の為に槍20本を作った角で大坂奉行所に捕らえられ、その使用目的を白状させる為に拷問に掛けられた時に、何も答えずその時に云ったのが「天野屋り兵衛は男でご座る」という言葉で、討入りが終わるまで何も云わなかったとされている。
また天野屋利兵衛之墓は大阪にもあり、何故、天野屋利兵衛の墓が色んな処に存在するのか・・・
もともと天野屋利兵衛なる人物は存在せず、赤穂浪士を助けた数多の商人が居て、後の仮名手本忠臣蔵にて、それらの義商を天野屋利兵衛という人物で代表したのでは、拷問に掛けられ「天野屋利兵衛は男でご座る」との台詞も後世の作り事であり、それが為に、数多の憶測が生まれ、その墓所も多岐に渡るのではないだろうかと思われるのである。

02散椿mid
「豊公愛樹五色八重散椿」(ほうこうあいじゅごしきやえちりつばき)
五色八重散椿とは、
五色とは、1本の木に紅・白・桃色・絞りなどの多彩な色の花を咲かす。
八重とは、花びらが幾重にも重なって咲く。
散椿とは、花そのものが落ちるのではなく、桜のように花びらが一枚ずつ散らす。
地蔵院の境内に植えられている椿で、加藤清正が朝鮮から持ち帰り豊臣秀吉に献上したものだといい、天正15年(1587)に秀吉が開いた「北野大茶会」の際に、宿所となった地蔵院に献木したものだという。
秀吉ゆかりの椿は昭和の時代に枯れてしまい、現在の椿は二代目の椿である。

03山門mid
「夜半亭巴人墓所」(やはんていはじんぼしょ)
夜半亭巴人は江戸時代中期の俳人で、宝井其角・服部嵐雪に師事し与謝蕪村の師として知られている。
巴人の墓は地蔵堂の東側にあり「こしらへて あるとは知らず 西の奥」との辞世の句が刻まれている。

04本堂mid
地蔵院の駒札には、
『正しくは昆陽山地蔵院という浄土宗の寺で、「椿寺」の愛称で親しまれている。
神亀3年(726)に、行基が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりといわれる。
その後、平安時代に衣笠山麓に移され室町時代初期に戦災で焼失したが、足利義満が金閣寺建立の余戝で再建し、天正17年(1589)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。
地蔵院に安置する地蔵菩薩は、行基作のものと伝えられる。
地蔵堂背後の板扉はもと北野天満宮にあった多宝塔の遺構とされる。
書院の前庭には、北野大茶湯の縁により秀吉から当寺に寄進されたといわれる「五色八重散椿」があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢約120年の2世が本堂前に花を咲かせている。
薄桃色や白に咲き分ける五色の八重椿で、花ごと落ちず花びらが1枚ずつ散るのを特徴とする。
境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛のものといわれる墓や、与謝蕪村の師に当たる夜半亭巴人の墓などもある。
洛陽三十三所観音霊場の第三十番札所である。』
                       出典:【地蔵院(椿寺)の駒札】より

所在地:京都市北区一条通西大路東入る大将軍川端町2
京都駅から
▼「B2」乗り場から50系統、または「B3」乗り場から205系統、で、『北野白梅町』下車(所要35分)
「北野白梅町」から東に、徒歩3分