おかめ塚は、永井飛騨守高次が妻・おかめの冥福を祈り宝篋印塔を建てたものがいつしか「おかめ塚」と呼ばれるようになる。

01おかめ塚mid
おかめ塚の由来によれば、
『鎌倉時代の初め西洞院一條上るの辺りで、長井飛騨守高次という洛中洛外に名の聞えた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。
そのころ義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、高次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいきましたが、高次ほどの名人も「千慮の一矢」というべきか、信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切りおとしてしまったのです。
心憂の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は、古い記録を思い出し「いっそ斗栱(ときょう:木組みの一種)をほどこせば」というひと言、この着想が結果として成功をおさめ見事な大堂の骨組みが出来上がったのです。
安貞元年12月26日厳粛な上棟式が行なわれたが、此の日を待たづしておかめは自ら自刃して果てたのです。
女の提言により棟梁としての大任を果し得たという事が世間にもれきこえては・・・「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。
高次は上棟の日亡き妻の面を御幣につけて飾り冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、また、この阿亀の話を傳え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して、菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、だれ言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。
現在京都を中心として使用されているおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により「家宅火災除け」家内安全と繁栄を祈って始められたものです。
また、おかめの徳は「災を転じて福となす」というところから、建築成就工事安全、女一代厄難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として全国を風靡するところとなっています。
なお昭和54年の春、有志により阿亀の大像が造立され、福徳の像として祀られ「おかめ信仰」の輪が一層広がっております。』
                            出典:【おかめ塚由来】より

02おかめ桜mid
おかめ塚は千本通の大報恩寺にある。
大報恩寺は千本通にあり、釈迦如来坐像を祀ることから「千本釈迦堂」の名で知られている。
鎌倉時代の承久3年(1227)に、義空上人(1171~1241)により創建される。
密教の道場として栄え、多くの堂塔伽藍が並んでいたが、応仁の乱で本堂以外は焼失してしまう。
本堂は度々の戦火にも焼けずに、創建当時のままの姿を残し、京都市内最古の木造建築物として国宝に指定されている。
また「おかめ伝説」発祥の地でも知られ、おかめ塚やおかめ像、おかめ桜などがある。

03本堂mid
駒札には、
『瑞応山(ずいおうざん)と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。
承久3年(1221)藤原秀衡の孫、義空(ぎくう)上人が、猫間中納言光隆(みつたか)の家臣、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起りといわれている。
当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため堂宇を消失してしまった。
現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。
堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像を安置、また霊宝殿内には快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音菩薩像、千手観音立像、銅像釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵している。
また毎年2月には、おかめ福節分会、7月には陶器供養、8月には六道まいり、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。』
                    出典:【大報恩寺(千本釈迦堂)の駒札】より

所在地:京都市上京区今出川七本上ル溝前町1043
京都駅から
▼「B2」乗り場から50系統で、『上七軒』下車(所要23分)
「上七軒」から徒歩3分