碑文:表(西)「工学博士田辺朔郎君紀功碑」/裏(東)京都府知事池松時和 紀行碑の記が刻印/横(南)「昭和十六年八月正三位勲一等工学博士 田辺朔郎君ノ紀功碑ヲ下鴨ヨリ蹴上ニ移築ス」

01紀行碑mid
琵琶湖疏水のインクライン・蹴上舟溜の近くにある蹴上疏水公園に建つ、「工学博士田辺朔郎君紀功碑」。
そのそばには昭和57年(1982)に「田邊朔郎銅像」が建てられた。
紀行碑は、田邊の還暦を記念し、その功績をたたえるために、出町柳の賀茂川と高野川の合流地点に建てられたのだが、昭和16年(1941)に現在の地に移された。

02疏水mid
琵琶湖疏水は、
『明治14年(1881)に就任した京都府三代目知事・北垣国道は、明治2年(1869)の東京遷都で急激に衰退した京都経済の復興策として、琵琶湖から京都に水を引き、水車動力、舟運、灌漑(かんがい)、精米水車、防火、井泉、衛生を目的とした念願の疎水工事を計画しました。
およそ4年にわたる政府、水源滋賀県、下流大阪府等関係先との折衝を経て、田邊朔郎技師、嶋田道生測量師ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民とともに京都発展を考えて、不退転の決意のもとで、明治18年(1885)8月に着工しました。
工事区間の中でも、当時の我が国の土木技術では、極めて困難とさえ言われた大津山科間の第1トンネル(延長2,436m)の工事は、硬巌と湧水との闘いの中での大変な難工事となりました。
疎水工事は明治初期の土木技術の最先端をいくものばかりで、沿線の人々は驚異の目で小路を見守りました。
着工してから4年8ケ月後の明治23年(1890)4月、就労者数400万人、125万有余円という莫大な費用をかけて大津の琵琶湖取水地点から鴨川落合まで11.1Kmの疏水が完成しました。
この工事途中の明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員がアメリカコロラド州アスペンの銀鉱山の水力発電所を視察した結果、水力利用計画を発電に変更し、事業用としては我が国初の水力発電所を蹴上に建設することにしました。
この水力発電により世界最長のインクラインの動力源が確保され、街には電灯が灯り、市電が走るなど、京都の産業の近代化が進みました。
この疏水は京都市民と産業人に希望と勇気を与え、京都の近代化を根底的に支えた歴史的大事業として、今日の京都の中に脈々と活き続ける、まさに百年の大計であり、京都の街を救った「いのちの水」と言えます。
その後、明治27年(1894)9月には伏見区堀詰町までの延長約20Kmが開通し、北陸、近江から大阪に至る物資と旅客の舟運ルートが完成しました。
やがて、明治45年(1912)には京都市三大事業と称された「第2疏水の建設」「蹴上浄水場創設による給水」「道路拡築と市電軌道敷設」が完成し、今日の京都の都市基盤がほほできあがりました。』
                       出典:【いのちの水 琵琶湖疏水】より

03インクラインmid
インクインクラインは、蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した船から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に載せて昇降させる目的で建設された。
当初、蹴上から分水した水車動力(20馬力、15KW)によって水車場内のウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤーロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていた。
その後、明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員が訪米しスペンの銀鉱山の水力発電所を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国初の蹴上発電所を建設することになった。
この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)の動力として使用された。

所在地:京都市左京区粟田口大日山町
京都駅から
▼京都市営地下鉄烏丸線で、『烏丸御池』乗換(所要6分)
 京都市営地下鉄東西線で、『蹴上』下車(所要7分)
「蹴上」1番出口からインクラインに向かい、徒歩3分。