長宗我部元親が、天正19年(1591)に岡豊城から移り居城としたのが、浦戸城である。

01浦戸城跡mid
浦戸城は月の名所で有名な桂浜の北、高知への港の入口に位置した浦戸山(標高59m)に、元々は本山氏が築城したものを、長浜の戦いで本山氏を滅ぼしたのち、長宗我部国親が支城としたものを、元親が京・大阪への水運を考え、この城を本格的な山城として大幅に改修したのである。
詰ノ段にある説明書によると、
『浦戸城は、戦国時代の土佐を代表する武将・長宗我部元親が、土佐一国を領有する拠点として整備した城である。この地は浦戸湾の入口に位置し、交通の要衝として重要な地で南北朝時代からこの地をめぐる攻防が繰り返されてきた。
戦国時代、長岡郡本山を本拠地とする本山氏が高知平野に進出し、朝倉城(高知市朝倉所在)を拠点としてその勢力を拡張した際、ここに城を築いたのが中世の山城として整備されたはじめである。
1560(永禄3)年、本山氏を破った長宗我部氏はこの城を奪った。1585(天正13)年に土佐一国の領有を認められて後、元親は一時大高坂山(現・高知城跡のある地)に城を築いたものの治水に失敗し、1591(天正19)年頃再びこの地に移転以後、10年間にわたって浦戸城は長宗我部氏の本城となった。
現存する遺構は、天守台跡、詰ノ段、ここから西へ三ノ段、三ノ下段、堀切及び二ノ段などであるが、中世の山城的構造をもとに、詰ノ段を取り巻く土塁配置や天守を備えた点などの近世城郭としての特徴を併せ持つ、土佐の城郭史上貴重な遺構といえる。』
                     出典:【詰ノ段の浦戸城跡の説明板】より

02桂浜mid
浦戸城は、本丸・二の丸・三の丸・出丸からなり、五間四方三層の天守を備え、北・南・東を海に囲まれた天然の要衝であった。
慶長4年(1599)元親が亡くなり、四男の盛親が家督を継ぐも(長男の信親は島津氏との戸次川の戦で戦死している)、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川方に就こうと密偵を送るが、石田方に捕われやむなく西軍に就くのだが、小早川秀秋の裏切りで、さしたる働きもなく関ヶ原を撤退し、徳川家康により改易をされ長宗我部氏は土佐を追われるのである。
長宗我部盛親はのち大阪の陣にて徳川方と戦うのだが、大阪夏の陣の八尾・若江の戦いで奮戦するも、天味方せず大阪城に撤退している。
大阪城落城で敗北が決定的になると、再起を期して逃亡するが、京都八幡あたりに潜んでいたのを捕えられ、六条河原で斬首となり、長宗我部氏は滅亡するのである。

03龍馬記念館mid
浦戸城の本丸があった辺りに今は、坂本龍馬記念館と国民宿舎・桂浜荘が建つ。浦戸城の遺構は殆ど残ってなく、僅かに石垣や堀切りの一部を残すのみとなっている。
山内一豊が土佐に移封され、暫らく浦戸城にあったが、かつて長宗我部元親が築城を試みた、大高坂山に城を築き、慶長8年(1603)に山内家の居城として移ることになり、浦戸城は廃城となるのである。
高知城築城の際に、浦戸城の遺構の殆どは高知城の建材にあてられ、浦戸城の跡を偲ばせるものは殆ど残っていないのである。