若宮八幡宮の南、鎮守の森公園にあるのが、長宗我部元親初陣の像。

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長宗我部元親は、長宗我部氏21代の当主で、土佐をまとめ四国の覇者となった人物である。
天文8年(1539)に岡豊城で生まれ、永禄3年(1560)に本山氏との長浜の戦いで初陣を飾る。
小さい頃は色白でおとなしく軟弱で「姫若子」と呼ばれていたのだが、この戦いでその皮肉を一蹴し、その後は「鬼若子」と呼ばれるようになる。
ちなみに、この2日前には織田信長が今川義元を破った、桶狭間の戦いがあった。

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その年の6月に父、国親が急死すると家督を継いで21代当主となる。元親は一領具足を活用し、勢力を拡大し土佐一国を統一し、四国を平定するのである。
(一領具足とは、半農半兵の兵士で、一領(一揃い)の具足(武器・鎧)を携え、瞬時に軍制に加わることが出来るように、農作業中でも常に田畑の側に具足を置いていた。
兵士としての資質は高く、集団行動にも適していて、元親はこれを有効に活用し四国を平定するのである。
天正13年(1585)に四国を平定するも、時は豊臣の天下となり、四国の割譲を迫られ、伊予・讃岐の献上で和平を望むが叶えられず、阿波にて秀吉軍と戦うが、大軍に抗うことも出来ず降伏し、土佐一国を安堵される。
その後、秀吉の九州征伐で嫡男の信親と出兵をするが、戸次川の戦いで信親が討ち死にすると、人が変わったようになり、それまでの雄と覇気をなくし意固地となり、従来の器量を失ってしまい、長宗我部氏の崩壊をもたらす遠因を作るのである。
関ヶ原の前夜、慶長4年(1599)に61才で亡くなってしまう。もう少し元親が生きていれば、長宗我部の行く末も違っていたのであろう。

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銅像の横の駒札によれば、
『この銅像は元親公没後四百年に当たる平成11年(1999)5月に、地元有志の発案により建立されました。
元親公は永禄3年(1560)5月、二十二歳の折り、本拠地の岡豊城を進発し、宿敵、
本山氏の守る長浜城を陥落させ、初陣を飾りました。その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張
り、戦勝を祈願したことから、この地に初陣の雄姿を再現したものです。その後、約二十
五年をかけて四国全土を掌握しましたが、豊臣秀吉の軍門に降り、慶長4年(1599)
に六十一歳で京伏見の館に没しました。
銅像の高さは台座も含め約7メートル、槍の高さは5.7メートルあります。』
                      出典:【長宗我部元親公銅像の駒札】より
初陣像の由来は、
『頃は永禄3年(1560)5月末、二十二歳で初陣を迎えた若武者元親は父国親と共に宿敵本山勢の立てこもる長浜城攻めに取りかかる。
決戦前夜、若宮八幡宮社頭のこの地に陣をはり、必勝を祈願し、見事これを打ち破る。
初陣以来二十五年、ついに四国全土を掌握す。
元親公没後四百年に当たり、文武両道にわたる公の郷土への偉大なる業績を顕彰し、歴史に名を残しながら悲運のうちに倒れた長宗我部一族や、あまたの武将達の御霊を鎮めると共に末永く郷土の誇りとして語り伝えん為、この像を建つ。』
                         出典:【初陣像由来記の駒札】より