01馬防柵mid
若宮八幡宮といい、創建は、壇の浦で平家が滅んだ時の文治元年(1185)というから、その由緒は古い。
長宗我部元親が初陣の際に、戦勝を祈願した神社であり、本山氏との戸ノ本での戦いに勝利し、長浜城を攻略する。その後、浦戸城に立て籠もった本山茂辰(しげとき)軍を封じこめるため、若宮八幡宮前から海岸線まで馬防柵を築き、馬や兵の侵入を防ぎ、鉄砲柵としても効力を発揮したのである。

02八幡さんmid
若宮八幡宮の由緒は、
『御祭神に、誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)/息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)/宗像の三女神(市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと))/相殿に高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。
御創建は、文治元年(平安末期1185年)12月30日。
鎌倉幕府開府の基礎を固めた源頼朝公は、祖父、為義公の慰霊と源家の長久を祈り、京都六条に左女牛若宮を創建する。その際、土佐国吾川郡一円を同社の神領地として寄進した。その神領鎮護の神として、石清水八幡宮の御分霊を御勧請したのが、この若宮八幡宮である。(以上「吾妻鏡」より)
鎌倉、室町の時代を通じ、特に武家尊崇の神社として栄え、ことに戦国時代の永禄3年(1560)5月、長宗我部元親公は初陣に臨み、当社の馬場先の松原(現、鎮守の森公園)に陣を張り、一夜戦勝を祈願し、長浜城を攻め落とす。以来、当社を戦勝祈願の第一者と定め、社殿を出蜻蛉式建築と改める。これに対し、一宮(いっく)の土佐神社を凱旋報賽社とし、入蜻蛉式に改めたことから、両社は対をなすとさ独特の神社建築となっている。
慶長5年(1600)山内一豊公が新しく土佐の国守に封じられ、当初、浦戸城に、その後大高坂城に移住されてからも崇敬の念篤く、祈願八社の中の一社として、年々の祭典を厳修され幕末を迎えた。
維新後、明治6年(1873)には郷社に、昭和5年には県社に列せられる。戦後は宗教法人として長浜、御畳瀬(みませ)、浦戸、瀬戸、横浜、横浜新町の総鎮守として、更に厄除開運の神、安産の神、海上安全の神、戦勝祈願の神、雨の神として広い信仰を集め、今日に至っている。』
                      出典:【若宮八幡宮の御由緒の駒札】より

03鳥居mid
そしてこの神社の鳥居には、こんないわれが残っている。
『長宗我部元親公は、当社を出陣祈願の社と定む。天正14年秋、豊臣秀吉軍の先鋒隊として九州征伐に赴く際、社頭に武運長久を祈りいざ出陣という折りも折り軍旗が鳥居の笠木にかかり墜落す。衆人これを不吉となし出陣を見合す形勢となるも、公は殊更に「敵を笠にかけて討つの吉祥前兆である」と祝し出陣す。
果たせるかな、豊後戸次川にて島津軍と戦うも惨敗し嫡子信親公以下、七百余人の将兵は異郷に討ち死にす。帰郷後、元親公はこの鳥居を不祥の鳥居とし海上遥かに流しやる。爾来二百八十余年間、鳥居なき社として有名なるも、慶応元年、地震の際、鳥居の根石の自然に浮き出しことから衆人これを神意となし、再建す。
時に明治3年3月の事なり。更にその後昭和11年1月に建て替え、昭和55年10月には従来の木の鳥居から鉄筋コンクリートに変わり今に至る。』
                         出典:【鳥居のいわれの駒札】より