『よさこい節』(高知県民謡)
「土佐の高知のはりまや橋で、坊さん、かんざし買うを見た、よさこい、よさこい」または「おかしなことよなはりまや橋で、坊さん、かんざし買いよった、よさこい、よさこいで始まる高知の代表的な民謡である。

01はりまや橋mid
よさこい節は江戸時代から歌われているが、そに起源は所説あり、
慶長年間(1596~1615)、山内一豊が高知城を築いた際に、人夫達が歌たった「木遣節」で、特有の節回しで歌うのが難しいと言われるが、この「ヨイショコイ」という掛け声が変化したという説
正徳年間(1711~1716)、絵島生島の情話を題材にして歌われた「絵島節」だが、土佐人には旋律が優雅でよさこい節とは結びつきにくいが、これが元歌になったという説
薩摩半島で歌われていた「夜さ来い晩に来い」という囃子を持つ唄が鰹漁の漁師たちにより伝えられたという説、などがあるが真意は定かではない。

02純信とお馬mid
よさこい節は江戸時代から歌われていたようだが、江戸時代末期の安政2年(1855)竹林寺の僧純信と鋳掛屋の娘お馬のかけおち事件が話題となり、この話を歌詞に盛り込んで、今日の形になったという。
この事件は、
『幕末も間近い安政の初め頃、五台山長江の鋳掛屋の娘、お馬に恋した若い修行僧慶全は、住職の純信にひかれてゆくお馬の心を引き留めようと、はりまや橋で「かんざし」を買い、これをお馬に贈りました。
このことを知った町の人々は
「おかしなことよな はりまや橋で 坊さんかんざし 買よった」
とよさこい節の曲に乗せて歌いだしたのです。
噂は寺にも伝わり、純信は慶全を破門しましたが、それを恨んだ慶全は、「カンザシを買ったのは純信じゃ」とふれまわりました。
純信の恋は許されず、取り調べを受けて謹慎の身となり、お馬は出入りを禁止されてしまいました。
思い悩んだ純信は、安政2年(1855)5月19日、お馬を連れて駆け落ちをしましたが、藩の役人に琴平で捕らえられて高知へ護送されました。
裁判の結果、思案橋・山田橋・松ケ鼻の番所の前で三日間のさらしものにされた上、純信は国外追放、お馬は安芸川より東へ追放となりました。』
                          出典:【純信・お馬の物語】より

03みませmid
『土佐の代表的な民謡である「よさこい節」の<よさこい>は、「今晩おいで」という意味ですが、三味線にあわせて歌う都々逸調で、替え歌をはじめ多くの歌詞があります。
曲も単調平板、南国らしいあっさりした歌い方で、誰でもすぐ歌うことができます。
こうしたなかで、江戸末期たまたま「坊さんカンザシ」が町の話題っとなって、新しい歌詞として歌われ始め、よさこい節の代表的な歌詞となりました。
その後、昭和34年にペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」が空前の大ヒットとなり、全国の人々に愛唱されるに及んで「はりまや橋」は一躍有名になりました。』
                      出典:【土佐の民謡・よさこい節】より
よさこい節の歌詞を取り上げるキリがないが、
「みませみせましょ、浦戸をあけて、月の名所は桂浜」「いうたちいかんちや、おらんくの池にゃ、潮ふくビンビがおよぎよる」「わしの情人(といち)は、浦戸の沖で、雨にしょんぼりぬれて鰹つる」「土佐はよいくに、南をうけて、薩摩あらしがそよそよと」「よしや南海、苦熱の地でも、粋な自由の風が吹く」「破れ障子とわたしの権利、はらなにゃるまい秋の風」「よさこいばんに来いと、いわんすけれど、いて見りゃ真実来いぢゃない」「浦戸でるときゃ涙ででたが、おはなまわれば、小唄ぶし」
そして自作「ここのお家(うち)は、目出度いお家(うち)、鶴と亀とが舞い遊ぶ、よさこい、よさこい」となんでもありである。