『龍馬残影』(昭和60年(1985)発売)
作詞:吉岡 治、作曲:市川 昭介、歌:美空 ひばり
『坂本龍馬』(平成7年(1995)発売)
作詞:中津川 当健・藤間 哲郎、作曲:山崎 幸蔵、歌:鳥羽 一郎
帯屋町つながりと龍馬つながりで・・・

01瑞山(1)mid
ひろめ市場のすぐ前に「武市瑞山殉節之地」の石碑が建つ。
武市瑞山(ずいざん)通称、半平太といい、映画の月形半平太のモデルともいわれている。
坂本龍馬や中岡慎太郎、平井収二郎や吉村寅太郎、北添佶摩や田中光顕などが参加して、土佐勤皇党を作る。
一藩攘夷を目指し、土佐藩で公武合体を唱えていた参政・吉田東洋の暗殺を始め、京で佐幕派の暗殺を指示したことでも知られている。
武市の下で働いた人物に、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛がおり、いずれも人斬以蔵、人斬新兵衛と呼ばれて恐れられた。
武市もまた土佐藩で山内容堂の影響力が強くなると、勤皇党の面々と同じく捕縛され、慶応元年(1865)に切腹を命じられ、37才の生涯を閉じている。

02瑞山(2)mid
武市瑞山の最後の地となったのが南会所で、高知城下には南北に二つの会所があったが、武市は南会所の牢に投獄され、1年半後にここで切腹をする。
その跡に「武市瑞山先生殉節之地」の石碑が建つ。
碑文には
『武市小楯(たけち こたて)、通称は半平太瑞山と号す。
文政12年(1829)九月、長岡郡吹井村(現在の高知市仁井田)に生まれる。
天資(てんし:天性<生まれつき・素質>)、英(えい:優れており)、偉(い:大きく)明(めい:曇りがなく)、秀(しゅう:生粋で)、人格一世(いっせい:一生)に高し(高邁である)。
幕末多難際に土佐勤王党を率い国事に奔走(ほんそう)す。
後吉田東洋暗殺に連座し、慶応元年(1865)閏五月十一日、この地に割腹す。
時に年三十有七』
                     出典:【武市瑞山先生殉節之地の碑文】より

03東洋(1)mid
ひろめ市場横の通りを北に行くと、吉田東洋が暗殺された場所がある。
吉田東洋が暗殺されたのは、文久2年(1862)4月8日、雨の降る闇の夜であった。
高知城で藩主、山内豊範に信長公紀の本能寺の変を講義した後、酒肴を饗応され、供の護衛を断り追手筋から自宅に帰る途中、帯屋町のこの場所にて、土佐勤皇党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の3人に襲われ、東洋は直心流の達人であったが、酒の酔いもあり、また刺客の3人も夫々が手だれであり、雨中のなか、ここで首を取られてしまうのである。
その後、東洋の首は鏡川の「雁切橋」のたもとに晒されたという。後に武市半平太は、この暗殺を企てたとして、容堂公から切腹の沙汰を受けるのである。
碑文には、
『吉田東洋(1816-1862)本名・正秋、通称・元吉、15代藩主・山内豊信(容堂)に信任され、安政改革を推進、文武館を建設「海南政典」を編纂したが、公武合体策を堅持したため、武市瑞山の率いる土佐勤皇党の刺客により、文政2年4月8日この地に暗殺された』と横にある碑文に記されている。
                    出典:【吉田東洋先生記念之地の碑文】より

04東洋(2)mid
ところで、東洋を暗殺した3人のその後はというと、
那須信吾(なす しんご)は武勇に優れたた大男(180cm)で、、東洋暗殺の後に脱藩し長州に逃れ、文久3年(1853)に天誅組に加わり、軍監を務めるが、鷲家村の戦で狙撃され戦死する。享年35才であった。
安岡嘉助(やすおか かすけ)も暗殺後に脱藩し、一時、久坂玄瑞の庇護を受けるも、文久3年の天誅組の変で負傷して捕えられ、翌年、京の六角獄舎にて処刑されている。享年28才である。
唯一、明治まで生き残ったのが、大石団蔵(おおいし だんぞう)でこの人物も暗殺後に脱藩し、その後、薩摩藩士の養子となって薩摩藩士として明治を向える。明治29年まで生き、天寿をまっとうしている。