帯屋町ブルースの舞台となった「帯屋町」から「追手筋」を歩いてみる。
帯屋町ブルースの舞台となった「帯屋町」は、
山内一豊が高坂山に城を築き始めた頃にはすでにあったのではないかと思われ、元和5年(1619)には「おひや町」の名が現れている。
帯屋町の名は、二代藩主山内忠義の頃の商人帯屋勘助に由来するという。
高知城下の郭中(城下町で上級武士の屋敷や藩の役所が集まる場所)にあり、明暦3年(1657)から寛文3年(1663)頃にかけて武家屋敷が立ち並んだ。
土佐藩では郭中には上士が住み、郷士(下士)は住むことが出来なかった。
明治になり、高知城の下に県庁がおかれ、藩政時代からの日曜市が本町から帯屋町に移り、戦後に追手筋に移るまで続けられた。
太平洋戦争の高知空襲で焼け野が原になった市街地の再編にあたり、それまでの繁華街であった新京橋や京町が公園などに変わり、帯屋町がそれに変わる場所となった。
ここは、幕末の時代土佐藩の4代わたる藩主に仕えた家老の深尾弘人蕃顕(ふかお ひろめ しげあき)の屋敷があった所で、屋敷が無くなっても市民からは「弘人(ひろめ)屋敷」と呼ばれていて、平成10年(1998)に、「弘人屋敷」から「ひろめ市場」と名付け、土佐の風土に育まれた食文化・商い文化を受け継ぎ、「高知の食や文化、人情、人となり」をひろめる場所としてオープンする。
和洋中さまざまな飲食店や土産物店、鮮魚店、雑貨店など60店舗がひしめく屋台市場で、高知の参仏や庶民的グルメが味わえ、昼間から酒を飲むことができるのも、酒国・土佐ならではで、老若男女、市民や観光客など多くの人で賑わっている。
帯屋町から一筋北にあるのが「ひとりたたずむ追手筋」である。
高知城の追手門から東に国道32号線の電車通に続く通りで、日曜日に開催される「日曜市」や8月に行われる「よさこい祭り」の本部競演場にもなる。
町名今昔には、
『高知城の正門追手門前から東の廿代筋までをつらぬく表通りで、参勤交代の行列もここを通り山田橋へ向かった。
はじめは大門筋と言われた。家老、中老、御連枝(藩主の一門)などの広壮な屋敷や北会所(藩庁)、藩校教授館等があった。
追手門の前は広場になっており、大腰掛(家来の待合所)や訴訟箱が置かれていた。』
出典:【高知城下町名今昔 旧追手門】より
追手筋では毎週日曜日に、こうちじん御用達の街路市の「日曜市」が開かれる。
高知の街路市は、江戸時代の元禄3(1690)に、四代土佐藩主の山内豊昌公が、藩の政策として場所と日を定めた市(日切り市)を認めたことに始まる。
明治になり、現在のような「曜日市」となり、それまで朝倉町・蓮池町・新市町で開かれていた市を、本町一・二丁目で日曜日に行うようになり、それが帯屋町に移り、戦後、追手筋に移り「日曜市」として現在に至っている。
日曜市は、朝早くから日没近くまで、高知城追手門から東に1Kmにわたり300店が軒を並べている。
店先には、新鮮な野菜や果物から寿司、餅、加工食品、植木、花、水産物、金物、や土佐打刃物、骨董品まであらゆるものが売られている。
高知の街路市は、上町4丁目・5丁目の水路の上で開かれる「火曜市」、本町五丁目の県庁近くで開かれる「木曜市」、愛宕町一丁目の土讃線の高架橋の通りに開かれる「金曜市」などがある。




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