『南国土佐を後にして』(昭和28年(1953)リリース)
作詞・作曲:日本陸軍第40師団歩兵236連隊(補作・編曲:武政 栄策)
北海道から沖縄までの「ご当地そんぐ」を訪ねた旅の最後を、故郷の「高知」で締めくくろうと思うのである。

01高知城mid
高知のご当地そんぐと言えばこの歌が最初に浮かぶのだが、この元歌は太平洋戦争中に、中支(中部志那で、上海、南京、武漢など中国の中部一帯の地域をいう)に出征した、日本陸軍第40師団(通称、鯨部隊、高知の連隊で構成)歩兵236連隊が、土佐の高知への望郷の思いを込めて歌ったのが始まりである。
戦後に「おきゃく」の席で歌われ県下に広がったと言われている。
当時、歌われていた「南国土佐を後にして」(当時はこの題名ではない)の曲は、歌謡曲調や軍歌、寮歌など歌う人により少しづつ違っていて、酒のはいった酒席の場での歌であり、下手もあれば上手もあったようで、これを聞いた作曲家の武政栄策が採譜し、
一番の「中支へきてから」を「都へきてから」に、二番の「月の露営で」を「月の浜辺で」、三番の「おれも負けずに手柄をたてて」を「わたしも負けずに励んだ後で」と直し戦時色を消して、一番の出だしの「南国土佐を後にして」を曲名とし、昭和27年(1952)頃に今の「南国土佐を後にして」が出来たという。
歌詞の内容は先の変更のみで、あとは元歌のままであり、しいて作詞・作曲:日本陸軍第40師団歩兵236連隊(補作・編曲:武政 栄策)としたのである。

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「南国土佐を後にして」を最初に歌ったのは高知で活躍した丘京子で、昭和28年(1952)に開局したラジオ高知(現、高知放送)の番組で歌っている。
言っ在の歌詞と少し違うところもあるが、元歌に近いものだったようである。
昭和30年(1958)に、相馬盆唄でデビューした鈴木三重子が歌ったがヒットしなかった。
昭和33年(1958)、NHK高知局がテレビ放送開始の記念として、高知県民ホールで「歌の広場」が放送された時のゲストであったペギー葉山が歌ったことで、テレビ画像にのって全国に知られるようになる。
レコードも吹き込みミリオンセラーとなり、累計販売も200万枚を越えている。
ジャズ・シンガーであったペギー葉山は、当初、民謡調のこの歌を歌うのを渋っていたが、NHKのディレクターに押し切られ、民謡調を避けジャッズに近い感覚で歌うと、満員の会場から感動の渦が沸き起こったという。
後に、ペギー葉山はこの歌が「鯨部隊」で歌われていたことを聞いていれば、快く受けたのにと言っている。
この歌がペギー葉山の持ち歌のひとつとなり、司馬遼太郎に次いで、昭和49年(1974)に、二人目の「高知県名誉県人」となっている。

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「南国土佐を後にして」は上の三人以外にも多くの歌手によって歌われているのだが、三番のよさこい節の「言うたちいかんちや おらんくの池にゃ 潮吹く魚が 泳ぎよる よさこい よさこい」のなかで、「いうたちいかんちや」の「ちや」と「おらんくの池にゃ」の発声が上手く歌えないのを聞くことがあった。
それは、「ちや」は「tiya」と歌うのだが、「ちや(tiya)」と歌えずに、「ちゃ(cha)」となるのである。
また、「にゃ」は「nya」と歌うのだが、「にゃ(nya)」と歌えずに、「にや(niya)」となる。
いつもここで「こそばかゆい」感じがするのだが、ぺぎー葉山は、この難関をクリアーしたことも、ヒットした要因のひとつではなかったかと思うのである。