『涙そうそう』(平成10年(1998)リリース)
作詞:森山 良子、作曲:BEGIN、歌:森山 良子
平成13年(2001)に夏川りみがカバーして知られるようになる。
4回目の沖縄は冬の2月であった。
この時に帰りの日を1日ずらして次の日には飛行機までの半日を、タクシーで首里城やひめゆりの搭などを観光して帰ってきた。
摩文仁の丘が見える平和祈念公園にあるのが「平和祈念資料館」
沖縄戦の犠牲になった霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに沖縄のこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため設立される。
設立理念は、
『沖縄県平和祈念資料館は
1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。
90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。
沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。
沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。
ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。
私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
“沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴 史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。』
出典:【平和祈念資料館 設立理念】より
平和祈念公園から国道331号線を6分ほど走ると「ひめゆりの塔」がある。
ひめゆりの塔は、昭和20年の沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師を慰霊するために、陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に、昭和21年4月に立てられた。現在の塔は、昭和32年6月に建立されたものである。
碑には、ひめゆり学徒隊(136名)と学徒隊以外(91名)の名が刻まれている。
「ひめゆり」の名は陸軍病院第三外科に学徒隊として従軍した「ひめゆり学徒隊」に因んでいる。
「ひめゆり」は、沖縄県立第一高等女学校学の校誌名「乙姫」と、沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせたもので、「姫百合学徒隊」であったが、戦後ひらがなで「ひめゆり学徒隊」と記載されるようになる。
そばには「ひめゆり平和祈念資料館」があり、少し長くなるが、設立の主旨を引用しておきたい。
『沖縄戦は、90日余の死闘で、日米双方に20万余の犠牲者を出しましたが、その12万余は沖縄住民でした。
米軍は、沖縄戦を、本土攻略の不沈空母として確保する重要作戦と位置づけ、日本軍も、米軍の本土上陸を一日でも長く阻むための持久戦と位置づけました。
沖縄守備軍は、この至上命令をうけて、玉砕方針で沖縄戦に臨むこととなり、県民の根こそぎ動員が企てられました。
米軍進攻に備える沖縄守備軍は、県下女子中等学校の生徒らに看護訓練を強化し、米軍が上陸すると、ただちに学徒隊を編成して、戦場に駆り立てました。
なんの法的根拠もなく、生徒らの戦場動員を強行したのです。
1945年3月23日深夜、女師・一高女の寮生全員と自宅通学生の計222人、職員18人が南風原にある沖縄陸軍病院に配置されました。
その他、在地の部隊に動員されて、戦線に組み込まれた教師生徒もいました。
生徒らは、ただ祖国の勝利を信じて、砲煙弾雨の中、身の危険も顧みず、負傷兵の看護や死体処理、医療器具・薬品・食料や水の運搬など、命ぜられるまま、献身的に協力したのです。
5月下旬、日本軍は南部に敗走し、南風原陸軍病院や各地の野戦病院も南部へ撤退しました。
そして、すでに壊滅状態となっていた日本軍は、喜屋武半島の戦場の真っただ中で、学徒隊に解散命令を下したのです。
年端も行かない生徒らを、米軍の包囲網の中で、投降を許さず、地獄の戦場に放り出したこの解散命令が、学徒隊の犠牲を更に悲惨なものにしました。
陸軍病院に動員された240人中136人、その他の地域でも91人、学徒職員併せて227人が尊い生命を失いました。
あれから40年余、言語を絶した当時の惨状は、片時たりとも私達の脳裏を離れません。
私達は、真実から目を覆われ、人間らしい判断や思考も、生きる権利さえももぎ取られ、死の戦場に駆り立てられた、あの時代の教育の恐ろしさを、決して忘れません。
戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、戦争体験も風化しつつある今日、しかも、核の脅威にさらされる昨今の国際情勢を思う時、私達は、私達の戦争体験を語り継ぎ、戦争の実相を訴えることで、再び戦争をあらしめないよう、全力を尽くしたいと思います。
この思いをひめゆりの心とし、永遠に世界平和を訴え続けることこそが、あたら尊い生命を失った生徒らや職員の鎮魂と信じ、私達は、県内外各位のご厚意とご協力を仰いで、この地に、ひめゆり平和祈念資料館を建設いたしました。』
出典:【ひめゆり平和祈念資料館 設立主旨】より
摩文仁の丘や平和祈念資料館、ひめゆりの塔など、この重みを深く受け止め、戦後81年が過ぎ戦争を知る人達がいなくなる中で、歴史の事実を後世にどう伝えるのかを考えていきたいと思うのである。
4回目の沖縄に行ったのは冬の2月で、この時期は沖縄以外は冬でコートが離せないのだが沖縄は20度を越えるため、行きに関西空港でコートを預け、帰りに受け取るということをやった。
関空の手荷物預かりも慣れたもので、何の抵抗もなく預かってくれたのである。
ちなみに「新聞からご当地ソングが聴こえてくる」の沖縄のご当地そんぐは、
『島人ぬ宝』(平成14年(2002)劇中歌)
作詞・作曲:BEGIN、歌:BEGIN



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