『長崎物語』(昭和14年(1939)発売)
作詞:梅木 三郎、作曲:佐々木 俊一、歌:由利 あけみ
この歌は「じゃがたらお春」をの哀しい運命を歌った歌である。
「赤い花なら 曼殊沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春 未練な出船の ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る」
「うつす月影 彩玻璃(いろガラス) 父は異国の 人ゆえに 金の十字架 心に抱けど 乙女盛りを ああ雲り勝ち ララ雲り勝ち」
「坂の長崎 甃路(いしだたみ) 南京煙火(はなび)に 日が暮れて そぞろ恋しい 出島の沖に 母の精霊が ああ流れ行く ララ流れ行く」
「平戸離れて 幾百里 つづる文さえ つくものを なぜに帰らぬ じゃがたらお春 サンタクルスの ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る」と歌う。
じゃがたらお春は実在の人物で、出自は不明だが、江戸時代の寛永年間を波乱の人生を送った女性である。
お春は、ポルトガル商船の航海士のイタリア人ニコラス・マリンと長崎の女性・洗礼名マリア(日本名は不明)との間に生れた才色兼備の子供であった。
しかし慶長16年(1639)徳川幕府が5度目の鎖国令を発し、平戸と長崎に住む紅毛人(白人のことで、オランダやイギリス人などをいう)とその家族をバタヴィア(インドネシアのジャカルタ)に追放するのである。
その中に14才のお春の姿もあったのである。
バタヴィアに追放されたお春は、長崎物語が歌うように哀しい人生を送ったかというと、正保3年(1646)21才のときに、平戸生れの混血男性シモン・シモンセンと結婚をし、三男四女をもうけ、日本に帰ることなく、元禄10年(1697)72才の天寿をまっとうしている。

お春が悲運な情勢だとのイメージを作りだしたのが、追放後にバタヴィアから日本に出した「じゃがたら文」という手紙である。
「じゃがた文」は、追放された紅毛の一族が日本の親類や友に、日本に行く船に託して送ったもので、お春の文とともに4通の文が残されている。
この「じゃがたら文」は、享保5年(1726)に西川如見(じょけん)が綴った「長崎夜話草」の「「紅毛人子孫遠流之事付ジャガタラ文」のなかで、「寛永16年に、紅毛の血をひく11人がジャガタラに流されたが、日本に往き来する船に手紙を託し、親類友達へ送った。
その中に美しい少女の文が珍しく哀れだったので、ここに書き留める」とある。
その中で平戸の平戸オランダ商館に展示されている「コショロ」の文は、
『うば様参る
日本こいしやこいしや かりそめにたちいでて 又とかえらぬふるさとと 思へば心もこころならず なみだにむせびめもくれ ゆめうつつともさらにわきまへず候へども あまりのことに ちゃづつみ一つしんじまいらせ候 あらにほんこいしやこいしやこいしや
こしょろ』と書かれている。
この手紙を包装紙に使用しているのが、長崎銘菓の「長崎物語」である。
またお春の手紙は、
『千はやふる、神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の、空も心もうちくもり、時雨とともにふる里を、出でしその日をかぎりとなし、又、ふみも見じ、あし原の、浦路はるかに、へだたれど、かよふ心のおくれねば、
おもひやるやまとの道のはるけきも ゆめにまぢかくこえぬ夜ぞなき
(中略)
松かさ このてがしわのたね すぎのたね はうきぐさのたね 御ゐんしんたのみまゐらせさふらふ。かへすがへすなみだにくれてかきまゐらせさふらへば、しどろもどろにて よめかね申すべく候まゝ,はやはや夏のむしたのみ入候。我身事今までは異國衣しやういたし申さず候。いこくにながされ候とも、何しにあらゑびすとは、なれ申べしや。
あら日本戀しや、ゆかしや、見たやみたやみたや
じゃがたら はるより』と日本を思い起こし恋しく帰りたい気持ちを綴っている。
しかしこの文章が14才の少女にしては出来すぎており、当初から贋作ではないかとも疑惑があり、近年では如見が書いた偽作ではないかといわれている。
この手紙から、昭和14年(1939)「長崎物語」が歌われ、お春は悲劇の人生を送った女性だといわれるようになるのだが、果たしてお春の人生は哀しいものだったのだろうか・・・
長崎の出島は、江戸時代(1636~1859)に、唯一西洋(オランダ)との交易を許された所であった。
慶長17年(1612)にキリスト教禁教令を発し、宣教師の追放、信者の処刑など取締りを強化し、長崎でもポルトガル人を隔離収容するために、寛永13年(1636)に、中島川の河口に扇形の人口島を作ったのである。これが出島の始まりでその後、寛永18年(1641)に、平戸にあったオランダ商館を出島に移し、以降、明治維新を向かえるまで、ここが日本で唯一の外国(オランダ)との貿易拠点となるのである。
江戸時代にはここが西洋文化との交流地となり、薬品やガラス製品、西洋文化や西洋医学などが入り、西洋医学を学ぶために長崎に出向いた人も多かった。
明治になると、島であった出島も埋め立てられ、市街地にのみ込まれるのだが、長崎市が復元を水深し、徐々に元の出島の姿を取り戻しつつある。




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