『長崎の夜はむらさき』(昭和43年(1968)発売)
作詞:古木 花江、作曲:新井 利昌、歌:瀬川 瑛子
忘れたいのに忘れられない男(ひと)を忘れられずに長崎の街を歩く女(ひと)の心情を、浦上川や眼鏡橋を散りばめ歌い上げた歌である。

01浦上川mid
「雨にしめった讃美歌の うたが流れる浦上川よ」と歌われる浦上川は、長崎の北東にある前岳を水源とし、南西に流れ、途中いくつかの支流を集め、南に流れを変え長崎港に注ぐ川である。
浦上川は、昔は206号線に架かる大橋あたりから下流は海で「深江津」と呼ばれていて、浦上川の河口付近の地は、深江の浦の上流にある所ということで「浦上」と名付けられたという。
浦上の歴史は、江戸時代初めの慶長8年(1603)、浦上に「サンタ・クララ教会」が建てられるのだが、慶長19年(1614)に徳川幕府の「キリシタン禁制令」により教会は取り壊され、多くのキリスト信者は隠れキリシタンとなり、浦上の地が長崎と川や入江で分断されていたことから、破壊された教会跡にキリスト教信者が集まり、密かに祈りを捧げたという。
今此の地にカトリック浦上教会(浦上天主堂)が建っている。
また長崎は広島に続き、昭和20年(1945)8月9日に原子爆弾が投下されたところであり、被爆した人たちは水を求め浦上川へと逃げ、多くの人が亡くなったという悲惨な出来事も、川の流れは知っているのである。

02眼鏡橋mid
「霧にうるんだ眼鏡橋 そっとのぞけば あなたが見える」と歌われる眼鏡橋は、長崎市の中島川に架かる日本で最初の、長さ22m、幅3.65m、高さ5.46mの二つの半円を描く、石造二連のアーチ橋である。
巣面に映る姿が眼鏡のように見えることから、眼鏡橋と呼ばれている。
東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」と並び日本三名橋といわれる。
眼鏡橋は、寛永11年(1634)長崎興福寺の住職・黙子如定(もくす にょじょう)によって架けられたといわれる。
禅師は中島川が氾濫するたびに木橋が流されるのを見て、中国から石工を呼び寄せ石の橋を作らせたという。
この橋二連のアーチ橋であったが以降、中島川に架けられた橋は単アーチの橋であった。
中島川の度々の氾濫にも流出することなく耐えてきた中島川の橋だったが、昭和57年(1982)の1時間に187ミリという雨が降った長崎大水害では6つの橋が流失、3橋が大破するも、眼鏡橋は損壊したものの流出は免れている。
下流に流れた石材を集めたり、新しい石材を用いたりして修復し現在の眼鏡橋となっている。