『松山しぐれ』(平成24年(2012)発売)
作詞:喜多條 忠氏、作曲:弦 哲也、歌:城之内 さなえ
「途切れた恋を ひとひらの 雲に乗せてく ひとり旅 お城山から 見下ろす町は 遠く涙で にじみます 生きてゆくのは 淋しくて いつか濡れゆく 松山しぐれ」
と「お城山」すなわち松山城が歌われる。
松山城は松山市の中心地にあり、JR松山駅からもすぐの所で、近くには道後温泉もある。
天守が現存する12の城の一つで、勝山(松山城の天守だあることから城山とも呼ばれる)山頂に本丸、西南麓に二之丸、三之丸を構える平山城である。
慶長7年(1602)に、関ケ原の戦で戦功があった加藤善明が築城を始め、善明がここを「松山」と呼んだことで、松山の名が付いた。
しかし寛永4年(1627)に、善明は城の完成を待たずに会津に移封となり、蒲生忠知が松山藩主となるが、寛永11年(1634)に亡くなるが、跡継ぎがなく家は断絶となる。
寛永12年(1635)松平定行が松山城に入ることになり、定行が5重にお天守を3重に改築するが、天明4年(1784)に落雷により天守や主な建物が焼失する。
安政元年(1854)12代藩主松平勝善が、大天守などの本丸を再建し、明治維新を迎えることとなる。
明治になり、同3年(1870)失火により三之丸が、同4年(871)に二之丸が焼失する。
毎時6年(1873)廃城令がだされるが、天守や付属する建物は遺された。
正岡子規が「松山や 秋より高き 天主閣」や「春や昔 十五万石の 城下哉」の俳句を詠んでいる。
大正11年(1923)に旧藩主久松家に梁下げられ、そのまま松山市に寄贈されている。
松山市に寄贈された時は、40棟余が残っていたのだが、昭和8年(1933)西日本連続放火事件で、小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失をする。
昭和20年(1945)太平洋戦争の松山大空襲で、天神櫓など11棟が焼失する。
さらに昭和24年(1949)筒井門と東続櫓、西続櫓が焼失する。
幸いに、いずれの火災においても天守だけは類焼を免れている。
天守とともに残った21棟の建物は、いずれも国の重要文化財に指定されている。



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